かながわ美の手帖

番外編 ポーラ美術館「モネとマティス もうひとつの楽園」展

 ■「微細」「銀色」の光 静穏なる理想空間

 箱根のポーラ美術館で開催中の企画展「モネとマティス もうひとつの楽園」。印象派を代表するクロード・モネ(1840~1926年)と、フォービスム(野獣派)のリーダー格、アンリ・マティス(1869~1954年)。追求した主題も、居を構えた場所も対照的だが、ともに思うがままの「楽園」をつくり上げ、それを絵画にした。

 ◆循環する自然

 本展で展示されている2人の名品は、国内21カ所から集まった計約70点。うち同館収蔵のモネ作品が19点、マティスが8点だ。

 まず、モネ。仏各地を旅し、主に風景を描いたが、経済的ゆとりの出た1883年、パリの西80キロほどの小村、ジヴェルニーに転居する。90年にはそれまでの借家と土地を購入。近くの農園の「積みわら」の風景に魅せられ、同じ構図で朝、昼、夕と時間帯だけ変える連作に着手。理想とする北フランスの光の微細な違いを追求していく。

 また、大勢の庭師を雇い、広大な敷地で自ら庭づくりを始める。四季折々の植物が咲き誇る「花の庭」、さらに、93年には隣の敷地を買って水を引き、睡蓮(すいれん)の池に大好きな日本風の太鼓橋を架けた「水の庭」を造成。ほとりを歩き回り、最適のスポットを探して繰り返し描き、特徴的な光、時間、季節の違いをとらえようとした。

 同館学芸員の工藤弘二は「単に水辺を描くのではなく、水面の奥底に広がる世界、表面に映る世界、あるいはその両方を描こうとした。実はモネの作品はどんどん複雑化していく」と語る。

 そんな睡蓮の第1、第2連作に感じられるのは、循環する自然。「そのまま没するまで住み続けたジヴェルニーの地は、モネにとっての楽園であり、そこに自分なりの新しい光を付け加えもうひとつの楽園を描き出したのではないか」と工藤。

 ◆肘掛け椅子

 仏北部出身のマティスが南仏のニースにたどり着いたのは、第一次世界大戦中の1917年の12月。それまで暮らしていたパリとは全く違う「銀色がかった」圧倒的な陽光に、一瞬で魅了され、以降、ニースとその近郊で暮らす。

 その地でマティスはテキスタイル、家具、調度品など、さまざまなモチーフをホテルやアパルトマン(アパート)の室内に集めては組み合わせ、とくにテキスタイルを重視して思い通りの空間をつくり上げ、絵画に描いた。

 2人が理想とした空間=「楽園」について語った象徴的な言葉が会場に掲げられている。

 〈仕事に疲れた神経は、静かな水の広がりにしたがって解き放たれる。この部屋を訪れる人に、花咲く水槽に囲まれて、穏やかに瞑想(めいそう)する安らぎの場を提供できるだろう。〉(モネ)

 〈私が夢みるのは心配や気がかりの種のない、均衡と純粋さと静穏の芸術であり、…つまり、肉体の疲れをいやすよい肘掛け椅子に匹敵する何かであるような芸術である。〉(マティス)

 同館学芸員の近藤萌絵(もえ)は「この言葉から、2人が目指した芸術の理想像は、かなり近かったことが改めてうかがえる」と指摘する。マティスは41年にがんを患って手術。第二次世界大戦も激化の一途。そんな頃に描いた「リュート」には、みじんも暗い影がない。

 「苦しみを絵画に持ち込むことはしなかった。常に『肘掛け椅子』に座るような、幸福な明るさを描き続けた。晩年も身体的負担の少ない切り紙絵の手法を用い、盛んに制作した」と近藤。

 マティスの略年譜には、17年にニースに到着する前、ジヴェルニーにモネを訪ねたという事実が記されている。果たして30歳違いの2人はそのとき、どんな楽園談議に花を咲かせたのか。

 =敬称略

 (山根聡)

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 企画展「モネとマティス もうひとつの楽園」はポーラ美術館(箱根町仙石原小塚山1285)で11月3日まで。会期中無休(臨時休館あり)。午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)。入館料は大人1800円ほか。新型コロナウイルス感染予防のためマスク着用など。問い合わせは同館(0460・84・2111)。

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 ■クロード・モネ

 パリ生まれ。青年期まで仏北西部の港町、ルアーブルで過ごす。19歳でパリに出て、画家の道へ。風景画が得意で、連作形式に尽力した。40代でジヴェルニーに定住し、晩年まで自邸の庭の池に浮かぶ睡蓮を描き続けた。「印象-日の出-」(1872年)は印象派の名前の由来となった。86歳で死去。

 ■アンリ・マティス

 仏北部の町、ル・カトー=カンブレジ生まれ。20歳を過ぎ、パリに出て、美術を学ぶ。室内画、人物画を得意とする。大胆な色使いや素描を特徴とし、「帽子の女」(1905年)はフォービスムの原点とされる。1917年からは南仏のニースとその近郊を拠点に、線描と色彩の調和を探求し続けた。84歳で死去。

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