青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

若林正恭『青天』

<A面>

オードリー若林正恭がはじめて書き上げた小説『青天』は、高校のアメリカンフットボール部を描いた青春スポーツものだ。と言っても、そこはやはり若林正恭。彼の描く青春は、爽やかな汗と涙というよりは、挫折と後悔に満ちている。そして、暴力のスピードは速く、痛みはズシリと重たい。同質のものとして想起させられるのは、松本大洋『ピンポン』や北野武『キッズリターン』などで描かれる90年代の鬱屈とした青春だ。


特長として、圧倒的に文章が読みやすい。誰でもスルスルと読めてしまうはずだ。この読みやすさは、漫才師である若林の間とリズムの賜物であるし、なにより描きたいイメージが明瞭であるからだろう。アメフトの試合における運動性、そこに伴う感情の発露。若林の思うアメフトのおもしろさ、そのイメージが、瑞々しく飛び跳ねている。“読みやすい”というのは、文章に引っかかりが少ないということで、そこは好みが分かれるところだろうが、このグングンと前に読み進めていってしまう読書体験が、アメフトというスポーツの運動性にマッチしていて、この小説のグルーヴの肝となっているように思う。

フィールドに走る試合前の緊張感。ここから約2時間、1ヤードでも、1インチでも、前に進めばいいだけの存在になれる。それはいつも俺の救いだ。

ページを捲らせていくリニアな直進性と、描かれる激しい肉体のぶつかり合い、そのリズム。それが、文章に独特なビートを作り上げている。作中に数多く引用される日本語ラップのリリックが、その作中のビートと混ざり合い、とてつもないドライブ感を生み出している。たとえば、餓鬼レンジャー「火ノ粉ヲ散ラス昇竜」はこんな風に引用される。

目の前に火花が散る。この電子音みたいな耳鳴りは、なんだっけ?えっと、そうだ、餓鬼レンジャーの「火ノ粉ヲ散ラス昇竜」のイントロだ。
ジィーーーーーーン
“踊る鼓動癒しから高揚 最先端か不確かな東京 標高2001 超超超 いい感じ 気分は頂上”
足腰が軽く、足の裏が確実に地面を捉えて、よく進む。
“心拍数 爆発上昇 研ぎ澄ます感覚の包丁”
メッシュを掴んできた敵の腕を手刀で着る。
“快感の表情が証拠 3つめの目も開く瞳孔”
1秒後が見える。多分、ウーマは敵をブロックで外に押す。
“薄い酸素 肺肝が膨張 高山病”
止めていた呼吸をシッ!っという発声と共に解放する。
“残響が病状 歩いていく方法と方向”
こいつを抜いたら思いっきり外のルートを駆け上がる。
“またかかる霧 竜巻 轟轟”
さらなる追っ手が目の前に現れる。こいつは当たって、スピンっ!ドンっ!タンッ!
“燃やすタイマツ 往生まで放送 でかい声で応答しろ”
Sの赤いメットが正面から火の玉のように飛んで来る。
低い。
まだだ、もうちょい引きつける。今っ。
火の玉に対して跳び上がり、左足の先をメットの上の虚空に突き刺す。
ハードル!
宙に浮く身体が試合から投げ出されて意味を無くす。
赤い火の玉が股の間をゆっくり通り過ぎて、茶色い土の面が広がる。
着地すると、背後から飛んできたタッチダウンを告げる笛の音が心臓を貫いた。
“突き動かす衝動 理想像 労働 本当の事”
片手で掴んだボールをチームメイトに向かって突き出す。みんなでとった首だ。

リリックが物語に奉仕しているというよりは、言葉の意味から解放されて、文章のビートの上で跳ねている。この仕掛け、快楽性はちょっと新しいのではないだろうか。



若林が学生時代にアメフト部に所属し、『オードリーのNFL倶楽部』でMCを担当しているアメフト狂であることを認識していても、はじめての小説の題材にスポーツを選ぶのは意外だった。スポーツというのは勝ち負けがハッキリした世界だからだ。

勝っても負けても居心地が悪い


『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』より

資本主義、新自由主義での競争社会に嫌気が差し、別のシステムのあり方を求めてキューバに旅立つったこともあった。そんな若林正恭が描くスポーツの世界は、勝ち負けではなかった。試合の中で、“今”が生まれ落ちてくる瞬間の美しさ、その永遠性。そして、負けることが運命づけられていたとしても、それでも“やること”、いや “生きていくこと”の意味、尊さ。それらを若林は強い筆圧でもって、つぶさに書き上げてみせた。これを傑作青春小説と呼ばず、なんと呼ぼう。


<B面>

平成11年度東京都高校アメリカンフットボール春季大会。来週の2回戦で第1シードの遼西学園と対戦する。

『青天』の舞台は平成11年であると3ページ目にして明かされる。しかし、ちょっとした違和感。平成11年というと西暦1999年であって、1978年生まれの若林は21歳だ。この小説は明らかに、若林の高校時代の部活動経験が反映されているのであるから、時代を正確に設定するのであれば、彼が高校3年生であるのは1996年のはず。しかし、あえて3年ズラしている。1996年であると、作中で引用される雷「夜ジェット」(1997)、ZEBBRA「真っ昼間」(1997)、RHYMESTER「B-BOYイズム」(1998) などの日本語ラップがリリースされていないからなのだろうか。いや、同様に引用されているTHA BLUE HERAB「BOSSIZM」「AME NI MO MAKEZ」は1999年9月、餓鬼レンジャー「火ノ粉ヲ散ラス昇龍」は2001年であって、1999年を舞台にしたところで、リリース前だ。つまり、そこの時代考証には重きを置いていない。*1ではなぜ1999年なのか。

河瀬ってさ、ノストラダムスの予言って信じてる?

荻窪のルミネの屋上から見る空は、恐怖の大王でも降臨すんのかってぐらい紫に染まっていた。

劇中にこんな台詞がさりげなく配置されている。そう、ノストラダムスの大予言である。1999年7の月、空から恐怖の大王が降りてきて、人類は滅亡する。この荒唐無稽な予言が時代の空気に与えた影響は大きく、70~80年代生まれの子どもたちはこの予言を半ば信じていて、1999年に自分が何歳になっているのかを計算しなかった者はいないはず。つまり、あの時代の子どもたちは、あらかじめ“終わり”を叩きつけられ、そして、死に損なった。そんな世代なのだ。『青天』の主人公アリはまさにその象徴だ。死んだように生きて、何者にもなれず、“負け”を運命づけられている。しかし、1999年の7月、世界が終わらなかったかわりに、彼を髪の毛を刈り上げ、生まれ変わる。勝ち負けを超越した、一瞬の永遠を掴み取るために。

*1:重きを置く必要なんて全くないと思う