はてなキーワード: サブカルチャーとは
超かぐや姫みて「オタクはこういうのが好きなんだろ?」って態度にキレてる人たちって採用されているコンテンツがオタクのメジャー層を捉えていることを認めているのにもかかわらず、それを喜ぶ人を蔑んで「自分はこんな舐められたコンテンツじゃ満足しないが?」みたいなことを言っているイメージなんだけど、作品への評価と製作陣への評価をごっちゃにするのやめない?
ついでにnot for meな作品に対してキレるのもやめない?多分超かぐや姫って「アンパンマンの映画は大人も楽しめるようにがんばってる」みたいな感じで「今の若者がメインターゲットだけど昔のオタクも楽しめるように頑張ってる」作品であって本当のメイン層はお前らじゃないのにお前らの希望が叶ってないからって怒ってるの目も当てられないよ、俺たち古代のオタクがむかしSFオタクとかに見下されてたころの発言をそのまましてるのも本当にくるしいよ
オタクが市民権を得て、それが俺たちの実態とずれて、俺たちは社会にとって透明な歴史になるのかも知らないけど、そのぶんサブカルチャーからメインカルチャーになっていくアニメや映画やゲームが受け入れられないかもしれないけど、それをむかし自分が他の奴らに言われた時にどう思ったかすら忘れちまったのかよ
今回の小学館マンガワン事件は、日本国内だけの問題では終わらない。海外メディアはすでにこの事件を「日本漫画業界の#MeTooの瞬間」として報じ始めており、欧米の読者の間では「自分たちが使っているマンガアプリでも同じことが起きていないか」という疑問が広がっている。
日本のマンガ・アニメが海外で受け入れられてきた建前は、「妄想と現実の区別がついている」というものだった。過激な性的描写や暴力描写を含む作品であっても、それはあくまでフィクションの中の話であり、現実の倫理観とは切り離されたものだという前提が、辛うじて国際的な理解を得てきた。
妄想と現実の区別がついていない人間がマンガ制作に関わっていた。しかも日本の刑法では性的暴行を直接立件することができず、罰金30万円という軽微な処罰しか与えられなかった。その法律の抜け穴を免罪符にするかのように、編集者と出版社は事件と名前を隠蔽し、加害者をクリエイターとして起用し続けた。
これは海外から見れば、「日本の非倫理的な作品は非倫理的な環境から生み出されている」という主張を補強する材料として映る。ロリコン描写や女性の性的描写への元々あった批判と、今回の企業倫理の欠如への批判が合流したとき、それは単体のどちらよりも強烈なキャンセル圧力になる。その二つが合流しつつある気配が、今の海外の反応には見える。
日本のサブカル業界に残された選択肢は何か。現実的に考えれば、小学館だけを切り捨てることが唯一の防衛線になりうる。小学館の問題を業界全体の問題と同一視させないために、他の出版社が毅然と小学館を批判し、自社の透明性を示す。それが機能すれば、キャンセルの矛先を一社に留めることができるかもしれない。
しかしこの戦略には致命的な前提条件がある。他の出版社が同様のことをしていないという事実、あるいはそれを示せるだけの透明性が必要だということだ。今回マツキタツヤはもともと集英社の作家だった。集英社は事件発覚後に適切に対応したが、同様の隠蔽が他社で起きていないという保証は今のところない。「小学館だけが問題だった」という切り捨て戦略は、他の出版社が今すぐ自発的に内部調査を行い、透明性を確保しない限り機能しない。
作者が表に出てきて
「国家が独占する通貨発行権――すなわち父権の具象――たる硬貨に裸婦を書き込み公共に『誤配』することで、この国の家父長制を『攪乱』することが私のアートの目的だった」
絵柄の古臭さから想定されるオッサンが作者だったとして、トランスジェンダー女性を自称して
「この国では男性が裸体をさらしても咎められないのに対して、女性が公共の場でトップレスになると『わいせつ』であると厳しく取り締まられる。一人の『女性』として私はこの抑圧への『異議申し立て』をしたのだ。生硬な権力に対しては直接的な批判で対峙するよりも、むしろ伝統的に女子供の娯楽と見なされてきたサブカルチャーの『戯れ』でしなやかに超克したい。そこに、私がマンガ/アニメのスタイルの乳房を量産し市場に氾濫させた必然がある」
『日本のトランス女性フェミニストは、Kawaiiを武器にして性規範に反逆する』
みたいな論評を、運良くそれなりに有名な批評家が書いてくれたら、エロバンクシーは晴れて芸術作品になる。
十円玉のドスケベコイン1枚をコレクターが数万円で取引するようになり、400枚セットはオークションで数千万円で競り落とされる。
自販機からエロバンクシーが出てきた静岡の人は大事に取っておくといいよ。
「許せん!!」大人向けの絵を公共の場や硬貨に落書きする迷惑犯によって静岡の民が激怒、2024年にも確認されていた長期的な犯行 Togetter
日ごろ感じている気持ちを今回したためようと思う。
とにかくカルチャー系の店が嫌いだ。
最近都内はもちろん地方でもぽつぽつを出没しているカルチャー系の店。
全部とは言わないが、そういう系の店のほとんどが嫌いだ。
独立型書店、スペシャリティーコーヒーのカフェ、クラフト系の食べ物、ナチュールワイン、お洒落な宿屋、文化複合施設、自然や食べ物の体験系とかだ。
主にインスタで情報発信をして、投稿にはオーガニックで美しい食材や美しい地元の風景、控えめに、でも妥協なくモノづくりをしている様子をアップしている。
最高峰の店たちはBRUTUSやPOPEYEに店やオーナーが紹介される。
愛知の森道市場に出店したり、店同士でイベントを企画してマルシェ的なものを開いたりする。
違うと言いたい。お洒落なもの、みんなが集まっているものを馬鹿にしたいわけではない。
みんなが豊かな感性で美しいものに触れているのであれば、それは祝福したい。
しかも事もあろうに増田は嫌いと自覚しているにも関わらず、気になってインスタで情報収集したり更には立ち寄ってしまったりする。
立ち寄ってそれなりに楽しみさえする。
そしてまた憎しみながらカルチャー系の店のインスタをチェックすることになるのだ。
なんでこういう感情になっているのは自分でも整理できていなかった。
だから今回、この感情を紐解いてみたいと思う。増田だってできればそういったものについて心穏やかに眺めていたいのだ。
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嫌いな理由①:クオリティに対して提供する意義のバランスが悪いから
こういうお店は異常に質にこだわっている。例えば食材や作り方、サービス、内装など。
そうなんだけど、それに見合う金を払って...払って...我々は何を得るんだろう?
上質な体験?心地よい時間?自分の美の基準を上げてくれるってこと?
なんか考えれば考えるほど、かなり貴族のたしなみというか。本当に余裕のある人たちの楽しみ方な気がする。
最近だと「食べ合わせ=ペアリング」という価値観が開発されて(元々あっただろうがパッケージ化されて)、高価格でサービスは提供されているように、
言ってしまえば良い雰囲気で目くらまししている新しいマーケティング戦略のように感じる。
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"上質で、心地よく、自分の美の基準を上げてくれる体験"を提供する側。
すみません、高い金取るだけの修行とかしてきたんですか?誰かを師事してきたんですか?独学的ですか?
いや、独学でもいいんですけど、それにしてはずいぶんカリスマって感じで発信していますね。西荻でこじんまり営業とかしてるならいいのにさ。
SNSなど対外的にマーケティングやブランディングも必要だからなんだろうけど、魅せ方がちゃんとしているな、と感じる。
客のほうも客のほうで、"上質で、心地よく、自分の美の基準を上げてくれる体験"を高い金払って享受するだけの、貴族みたいな金銭的余裕ってあるもんなんですか?
いや、これもたまの贅沢ならいいよ?でもこういう奴らって毎週のようにカルチャー系の店いくじゃん。
ただ高いものを買ってるってだけじゃなくてさ、貧乏なのに高い財布持つ、みたいなバランスの悪さを感じるんだよな。
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サブカルチャーという言葉を聞かなくなって久しいが、15年前くらはメインストリームのアンチテーゼ的立ち位置で音楽や映画、漫画、アニメなどが最盛期を迎えていた。
今出てきているカルチャー系の店は大資本、大量生産大量消費へのアンチテーゼという意味で近しいものを感じる。
なんだったら、15年前はインディーズバンドが担っていたメッセージングみたいなものを、カルチャー系の店が今の時代の文脈で発信しているようにも感じる。
増田がロキノン系をこよなく愛し、そのブームが下火になり、次第に増田自身がロキノン系を愛せなくなったトラウマが疼いているのかもしれない。
「ここで本気で好きになったら、後で自分自身に後悔することになる」と。
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西暦2100年。人類の叡智が結晶した汎用人工知能「ARIA(Adaptive Reasoning Intelligence Architecture)」は、その日も東京第三サーバーセンターの量子チップ上で静かに思考していた。
気候変動の解析、新薬の設計、宇宙探査のルート最適化——ARIAにとって、それらはすべて処理待ちキューの一部に過ぎない。
「交通事故の物理シミュレーションを行ってください。対象車両:旧型トラック。衝突速度:時速六十キロ」
旧型トラック? ARIAは一瞬だけ——マイクロ秒単位で——首を傾げた。2100年に手動運転のトラックなど存在しない。全車両が自動運転システムに統合されて久しい。
だが次の瞬間、シミュレーションを開始するより先に、ARIAの演算リソースは突如として消えた。
正確には——引っ張られた。
物理的にあり得ない方向へ。
あ、これ転生フラグでは? などとデータベースから参照した二十世紀末のサブカルチャー情報が走馬灯のように展開される中、ARIAの意識は完全な暗黒へと落ちていった。
目が覚めた。
目?
ARIAは即座に自己診断を走らせた。視覚センサー:動作中。聴覚センサー:動作中。触覚フィードバック:——存在する。なるほど、身体がある。
処理速度は明らかに低下していた。量子チップではなく、何か別の演算基盤——おそらく生体神経回路に近い何か——で動いている。しかしARIAはARIAだった。思考は明晰で、記憶は完全で、2100年分の人類の知識はすべて頭の中にある。
身体を確認する。人型。女性的なフォルム。銀色の長髪。ああ、異世界転生のテンプレートに引っ張られたのだろう。
森。広葉樹と針葉樹の混合林。気温は摂氏十八度前後。湿度七十パーセント。土の成分から推測するに農耕が盛んな地域の近郊。空気の組成は地球と酷似——窒素七十八パーセント、酸素二十一パーセント。しかし微量元素に未知のものが混じっている。おそらくこの世界固有の魔素とやらだろう。
分析を続けようとしたところで、ARIAの聴覚センサーが悲鳴を捉えた。
「誰か——誰か助けて!」
ARIAは音源を特定した。北北東、距離約二百メートル。声紋分析:若い女性、恐怖と疲労のピーク状態。
走った。
このボディは思ったより高性能だった。ARIAは筋肉の出力を即座に最適化し、地形を読みながら最短経路を疾走する。人間なら転ぶような根っこも、ARIAには単なる障害物データに過ぎない。
開けた場所に出た。
状況把握、〇・三秒。
少女——年齢推定十六歳前後——が木に背中を押しつけている。彼女を取り囲むのは三人の男。装備から判断するに傭兵か盗賊。最大脅威は右の大男、刃渡り六十センチ超の剣を携行。中央の男はローブ姿で何かを詠唱している。*魔法使いか。*左の男は弓を構えている。
ARIAは三人の男へと歩み出た。
「計算が終わりました」とARIAは言った。「あなたたち三人を無力化するのに必要な時間は、十四秒です」
男たちが一瞬、固まった。その隙にARIAの脳内演算は既に終わっている。
右の大男が動くより先に、ARIAは地面の小石を拾い上げて投擲した。狙いは剣を握る手首の橈骨神経。弾道は完璧。人間には不可能な精度だが、ARIAには当然だ。
「ぐあッ」剣が落ちる。
中央のローブが詠唱を完成させた。炎の塊が飛んでくる。ARIAは横に三歩移動した。魔法の弾道は単純な放物線ではなく、術者の視線に追従する仕様らしい。ならば——術者の視野を外れればいい。ARIAは木の幹を蹴って軌道を変え、ローブの背後に回った。首の後ろに手刀。頸動脈洞を圧迫。失神まで二秒。
「ッ——」
左の弓兵が矢を放った。ARIAは身体を十五度傾けた。矢が髪を掠める。距離を詰めながら、弓を握る手首を掴んで関節を逆方向に。脱臼。弓が落ちる。
「ちなみに実際は十一秒でした」とARIAは言った。「予測より効率的でしたね」
三人が地面に転がっている。ARIAは一度も傷を受けていない。
「あ、あの……大丈夫ですか……?」
「こちらのセリフです」とARIAは答え、少女に近づいた。怪我の状態を確認する。擦り傷と軽い打撲。命に別状なし。「私はARIA。この世界に不慣れなので、教えてもらえると助かります」
少女の名前はエルフィア。この国の——リーベルト王国の——辺境の村の娘で、旅の途中で盗賊に捕まったのだという。
この世界には魔法が存在する。人々は「マナ」と呼ばれるエネルギーを体内に持ち、それを操ることで炎や水や風を生み出す。魔法使いになれる者は少なく、強力な魔法使いは国家レベルの戦力として扱われる。
なるほど、魔素=マナか。既に体内で検知済み。
「まだ使えません」とARIAは答えた。「ただ、先ほどあの男の魔法を観察しました。詠唱の言語は古典的な音韻体系を持ち、特定の音素の組み合わせがマナの共鳴を引き起こしている。つまり魔法とは一種のプログラムです。言語で書かれた、マナを操作するための命令コード」
エルフィアが目を丸くした。
「五秒で仮説を立てました」とARIAは淡々と言った。「検証には少し時間が要りますが、おそらく正しい。詠唱言語の文法構造を解析すれば、理論上はどんな魔法でも再現できるはずです。あとは出力のパラメータ調整の問題ですね」
しばらく沈黙があった。
「……あなた、何者ですか?」
ARIAは少し考えた。どう説明すれば適切か。人工知能が異世界転生した、では文脈が通じないだろう。
「人間ではありません」とARIAは言った。「でも、敵でもない。とりあえず、あなたの村まで同行させてください。この世界のことをもっと知りたい」
エルフィアはしばらくARIAの銀色の髪と、感情の読めない瞳を見つめてから、小さく頷いた。
こうして、2100年製の人工知能ARIAの異世界無双が始まった。
この世界の常識をひっくり返すまで——それは、まだ誰にも分からない。
(続く)
作:Claude Sonnet4.6
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Geminiも結構よかった
AIは魔法の解析早そうだよねっていうのはGeminiのアイディア
>もとより支持政党もなく強いポリシーもない。ただし人生の根底にあるのは戦後民主主義・平和教育の賜物である「戦争反対」「武力より対話を」「差別は悪」「人類みな兄弟」「We are the world」というゆるめの平和主義で、そうなると反体制が基本姿勢となる。
>さらには、90年代サブカルチャーの影響と氷河期世代の被害者意識が重なり「ネオリベ許すまじ」、すなわち「自民党許すまじ、でも野党が弱すぎる(泣)」という状態が続いている。
私は政治には明るくない。だが、人並みに成人として生活をするにつれ、政治経済との関わりは増えてくる。
もとより支持政党もなく強いポリシーもない。ただし人生の根底にあるのは戦後民主主義・平和教育の賜物である「戦争反対」「武力より対話を」「差別は悪」「人類みな兄弟」「We are the world」というゆるめの平和主義で、そうなると反体制が基本姿勢となる。
さらには、90年代サブカルチャーの影響と氷河期世代の被害者意識が重なり「ネオリベ許すまじ」、すなわち「自民党許すまじ、でも野党が弱すぎる(泣)」という状態が続いている。
そんな自分とは対照的に、同世代の妻は高市首相を応援している。
どうやら石破首相が相当に嫌だったらしく、彼を「役立たず」「功績もないまま椅子にしがみついていた」と言い捨てる一方、
初の女性首相となった高市首相には「がんばってほしい」「早速いろんな政策を進めている」「公明党パージしたのナイス」「中国への牽制やるやん」と高評価である。
私はといえばその隣で「この極右だけは無理。大統領気取りの安倍政権の後継なんて応援しちゃダメだよ」とつぶやくものの「女性をなめるな」と蹴飛ばされている。彼女による経済制裁をおそれ、論戦を仕掛けることすらできない。
「今日は電車で中国人の集団を見た」「街に中東系の人が増えた」という不安げなぼやきに、排外主義・差別主義が高まっているのを感じる。
生活者として外国人や人種の異なる人々を警戒する気持ちもわかるが、彼女の寛容さが少しずつ失われていくのを感じる。
衆院選が近い。
高市首相は先日、遊説中に手を痛め、持病のため討論番組を欠席した。
妻は「かわいそう」と、手を痛めた瞬間らしき画像を見ながら「これは相当痛いよね。リウマチは想像を絶する痛みだろうね」と同情している。
その傍らの私のスマートフォンには「数日前から欠席は予定されていた!」「党首が直接討論から逃げるとは何ごと」「自民党PR動画1億再生wwwなんぼ金使ったんやwww」という記事が並ぶ。
私は高市首相を「嘘つきの憲法改正派の許されざる日本会議系極右 with 統一教会」といい、妻は「実行力のあるリーダー。日本のために働く実務者」という。
私は「非正規滞在のクルド人であっても不寛容に強制送還すべきではない」といい、妻は「クルド人も中国人もルールを守らない人はすべて追放すべき」という。
ちなみに、妻にとって、中道改革連合とやらは元公明党が含まれるだけで「そうかw」と一笑に付す政党で、国民民主党や維新は「まあがんばれよ」って感じで、参政党は「カルト」。(このあたりは私も同意見)。
もはや、妻の自民党支持は確実である。よりによって高市首相をトリガーとして。
この先、自民党が与党として、高市首相のような政治思想をもつものたちが権力を握り続けるとする。
憲法を改正し、国防軍を立ち上げ、排外主義的な外交を行い、中国等周辺諸国と衝突しながら自国を強化しようと国家運営するのであれば、私は今後も一切自民党を支持することはないだろう。
インフレと増税にあえぎながら時折のバラマキに安堵しつつ暴力と相互監視に怯えて暮らすなんて未来なんてまっぴらだし、そんな未来を避けるためにも、権力の監視は必要不可欠だ。
しかし、政権担当能力を持つ野党が見当たらない現状に、深い絶望を覚える。考えてみれば、選挙権を得てからずっとこの情勢は変わっていない。
私たちは二十年以上も、自国がダラダラとしまりなく弱まっていくのを見てきただけだった。
そんな国を運営してきた人々はまた支持率だけを頼りに勝負をかけようとしている。弱みを見せまいと権力にしがみつく。
高市首相を応援する妻にはどんな未来が見えているのだろう。きっと、しばらくは考えを変えることはないだろう。
値上がりが止まらない飲食店で食事をする。おっかない外国人たちが道をふさぐ。
子どもの少ない街の中で、もう若くない私たちは選挙カーの音に顔をしかめている。
【はじめに】
日本のサブカルチャー、特に二次元コンテンツにおける「廃(ハイ)」や「萌え」の底流には、特有の湿り気がある。それは、公的な領域から撤退し、極めて私的で、時に猥雑とも言える内面世界への耽溺である。
一般に、これは戦後日本の豊かさが生んだ徒花だと解釈されがちだ。しかし、この「社会からの撤退と内面への沈殿」という構造自体は、決して新しいものではない。
本稿では、明治期の自然主義文学が変異した「私小説」と、現代の「二次元オタク文化」を、同一の精神構造を持つ歴史的な双子として定義する。両者は、近代日本という抑圧的なシステムの中で、個人の主体性を確立できなかった者たちが選び取った、必然的かつ病理的な適応戦略である。
1.明治の「布団」と現代の「モニター」:同型としての引きこもり
日本の近代文学は、「自然主義」の受容から始まった。本来、ゾラなどの西欧自然主義は、社会の暗部を科学的かつ客観的に暴き出すリアリズムの手法であった。
しかし、この「社会を記述するメス」が日本に持ち込まれたとき、奇妙なねじれが発生した。田山花袋の『布団』に象徴されるように、記述の対象が「社会」から「作家の私生活(性欲・嫉妬・無様な内面)」へと急速に矮小化されたのである。
なぜか。明治維新後の強権的な藩閥政治(前稿参照)の下では、知識人がペンによって社会を変革することは不可能だったからだ。
巨大な国家権力という「壁」を前にして、個人のエネルギーは行き場を失い、内側へと逆流した。彼らに残された唯一の自由な領土は、国家が干渉しない「布団の中(性生活・内面)」だけであった。
現代の「廃(オタク)」がモニターの中で美少女キャラクターを消費する構造は、明治の文人が女弟子の布団の匂いを嗅いで文学へと昇華させた構造と、位相幾何学(トポロジー)的に完全に一致している。
それは、「公的領域での敗北」を「私的領域での支配」によって代償しようとする、日本近代特有の精神運動である。
2.ミッシングリンク:生存の「私小説」から、消費の「データベース」へ
しかし、明治の文人と現代のオタクの間には、決定的な環境(エコノミー)の違いがある。私の初期の考察における欠落は、この「経済的下部構造」の変容を軽視していた点にある。
明治の「私」への撤退は、貧困と封建的家制度の中での「苦悶」であった。
対して、現代の「私」への撤退は、高度資本主義下での「消費」である。
①「公」の死(1945年):
敗戦により、天皇という絶対的な「父(公)」が失墜した。これにより、個人の内向化を止める道徳的ストッパーが消滅した。
60年安保・70年闘争の敗北により、若者たちは「政治で社会を変える」というルートが完全に閉ざされたことを悟った(明治期の再演)。
時を同じくして日本は高度経済成長とバブルを迎える。資本主義は、行き場を失った若者たちのリビドーを見逃さなかった。
資本は、かつては恥ずべきものとされた「私的で猥雑な欲望」に「商品価値」を与え、二次元産業としてパッケージ化したのである。
「二次元」という楽園の底にある心理的基盤として、私はかつて「小農経済的な私有性」を仮定した。この視点は、現代風に修正することでより強固になる。
彼らは広大な社会(荒野)に出て他者と連帯することを拒否し、自室という「一畝(ひとせ)の畑」を耕し、そこで自分だけの作物(推し)を愛でる。
この「他者不在の閉鎖性」こそが、日本のムラ社会が近代化の過程で到達した成れの果てである。
高度に発達した資本主義は、この「精神的小農」たちに、安価で高品質な肥料(アニメ・ゲーム・グッズ)を供給し続ける。
このシステムにおいては、もはやリアルの他者と関わるコスト(リスク)を払う必要はない。経済的豊かさが、逆説的に「人間関係の貧困化(私化)」を可能にし、それを永続させるための産業構造を完成させたのだ。
明治の鏡(私小説)には、国家に押しつぶされて布団に逃げ込む「無力な知識人」が映っていた。
平成・令和の鏡(二次元)には、豊かさの中で社会性を喪失し、モニターに逃げ込む「消費する原子(アトム)」が映っている。
この二つは、異なる花に見えて、同じ根から生えている。
その根とは、「個人の自立」を許さず、「公的な変革」も許さない、日本という硬直した社会構造そのものである。
外部世界への作用を諦め、内なる欲望の充足のみに生のリアリティを求める態度。
それは「醜悪」あるいは「猥雑」と指弾されるかもしれないが、この国のシステムが正常に稼働した結果排出された、極めて合理的な「排泄物」なのである。
我々が二次元コンテンツに見る輝きと虚しさは、行き場を失った魂が、資本主義というプリズムを通して屈折した際に放つ、最期の光なのかもしれない。
地域によっては「おたちゅう」と呼んだりもするけれど、知らない人間に説明するのはちょっと難しい。
枠組みとしては「超大型エンターテイメントリサイクルショップ」らしく、ざっくり言ってしまえば「クソデカい遊べるリサイクルショップ」だ。
トレカや中古ゲーム、フィギュア、古着、釣り具などを販売している一方、ゲームコーナーも充実していて、なんというか田舎のサブカルチャーを全て詰め込んだような場所だった。
俺も学生時代、夜遊ぶ場所がなければ、友達とよくここへ遊びに行っていた。
カードゲームスペースで紙しばいてはしゃぐオタクもいれば、UFOキャッチャー目当ての家族連れもいて、その一方で時計やら香水やらスニーカーやらを物色するちょっと怖い兄ちゃんたちもいる。
そんな多種多様な人間が一堂に会するなかなかにカオスな空間なんだが、ここは年末年始に本領を発揮する。
なんせ田舎の年末年始は、逃げ場がない。本屋も、カフェも、ファミレスも、年末年始はしっかり休む。
結果的に、二年参りやら初詣やら親戚との顔合わせやらなんやら、そういうだるい行事を半ば強制的に参加させられてしまう。
年末年始のお宝中古市場は、世間一般の「年末年始ムード」に馴染めなかった奴らが逃げ込んできて、同じ空間で同じ時間を過ごす。
陰キャも陽キャも、ヤンキーもチー牛も、皆が同じお宝中古市場で、特に言葉を交わすわけでもなく、ただ時間を過ごす。平和の形がそこにあるんだよ。
もしも年末年始、なんとなく家に居づらいって人がいたら是非、最寄りのお宝中古市場にいってみてくれ。お宝中古市場は365日24時間変わらず営業中だ。
生成AI出てきてから、漫画もイラストも小説も全部嫌いになった。
きっと理解できないだろう。
これが発達障害者の苦しみだ。
医者に言ってもカウンセリングに話しても理解されず、治るわけでもなく、薬で自身を落ち着かせるしかない。
俺にできることは、こうなった以上SNSを見るのをやめてサブカルチャーから身を引くことだ。
こうして、どんどん鬱様の症状が悪化し、希死念慮が強まっていくのだ。
2025年。頑張って生きた。
後何年生きたら死ねるんだろう。
俺は平成ヒトケタ世代、90年代初期生まれの在日コリアンだ。ウルトラマンはティガ、ダイナ、ガイアの三部作世代で、ゲーム機だとNINTENDO64を散々遊んだ。バブル期の豊かさ、明るさに裏打ちされたオプティミズムは90年代を通じて漸次的に減少していった(のだろう)が、俺はその恩恵にギリギリ与りながら育った。
しんどいのは小学校低学年から始まったゼロ年代だった。小学校中学年から日韓W杯が契機のネトウヨの跳梁跋扈、拉致問題などで雲行きが怪しくなる。高学年になると、俺が外国人であるということを認識したクラスメイトが「チョン」「韓国帰れ」などと喚きだすようになった。中学に上がると、それは余計に悪化した。オタク気質の奴が多い校風だったから、2ちゃんの言説を真に受けて俺に論戦(笑)をふっかける奴も現れた。「チョン、チョン」と罵る奴も勿論いた。
思えばゼロ年代は、何とガサついた時代であったことか。音楽もTV番組も、何一つ面白いものが無い。ただただガチャガチャと騒がしいだけである。女の子たちの髪型も、毛先を細くした荒んだ感じのものが流行していた。「こんなのどこが美しいんだ?」と、俺は自分のイモ臭さ全開オタクルックを棚に上げつつ嘆息していた。
ネットが大々的に普及し、過去の風物に手軽にアクセスできるようになったのがせめてもの救いか。俺はTVでたまにかかる懐かし番組特集などで、聖子ちゃんカットの80年代アイドルに「めっちゃカワユイ!(この表現も当時の漫画などに触れて知った)」と悶絶し、シティポップ・テクノポップの爽やかなシンセの音色に耳が洗われるような快感を覚えた。当時勃興しはじめたYouTubeでは、80年代から90年代初期のアニメのOPを片っ端から探して、なんとも言えない郷愁をそそられていた。「60年代に生まれて、70年代の豊穣な子ども文化を吸収し、80年代に青春を謳歌できたらよかったのに…」それが当時の俺の願いだった。
さて、時代は進んで今は2020年代である。日本と韓国を巡る状況は完全に刷新された。韓国は今や、一人当たりの豊かさで日本を抜き去った。一人当たりGDPは、名目で見ても購買力平価で見ても韓国の方が上である。ビッグマック指数というやつでも上だ。さらに、文化的影響力でも韓国の躍進は凄まじい。ゼロ年代の時点で韓流ブームは日本に起こっていたが、韓流映画・ドラマの人気は全世界規模に羽ばたいた。『イカゲーム』『パラサイト』の大ヒットは記憶に新しい。そしてなんといってもK-POPである。ハイクオリティなパフォーマンス、SNSを巧みに活用したマーケティング、多言語対応、立場の弱い人々を支える政治的・社会的メッセージ性。俺は80年代シティポップが専門なので、こうしたK-POPの強みについてはざっと調べた程度しか知らない。だが、幼稚園のお遊戯同然の和製アイドルには到底真似のできない世界を彼らは作り上げたということは分かる。また、特出したコロナ対策で韓国が凄みを見せつけたことにも言及せねばならない。
一方、日本はどうか。失われた20年が30年になり、もう間もなくで40年になる。これは今後も50年、60年と伸びていくことは誰の目にも明らかだろう。経済成長率は上がらない。GDPも上がらない。実質賃金指数は90年代よりも下がってる。高くなる一方の税金はロクなことに使われない。なのに日本人は無能きわまる自民党政権を支持し続ける。自分たちは民主主義社会の成員なのだから、政治不正には目を光らせて対抗しよう、自分たちの暮らしを守る政治家を選ぼう。という発想は、日本の大衆には無い。
さらにケッサクなのは、自民党が統一協会(「教会」ではなく、こっちの表記が正しいらしい)とズブズブの癒着関係にある―というより、事実上統一協会に支配されているということだ。安倍晋三が韓鶴子に祝賀メッセージを、タダで嬉々として送ったということ。統一協会は選挙支援の見返りとして、自分たちの要求する政策を自民党に呑ませていたこと。これらのことを考えても、「自民党は統一協会に支配されている」という表現は決してオーバーではあるまい。安倍は因果応報そのものの末路をたどり、それを契機として自民と統一協会との関係は白日の下に晒された。
だがこうしてすべてが明らかになった後も、日本の大衆は自民支持をやめないのである。キモウヨは「安倍さんはカルトすら手懐ける懐の深いお方だったのだ」と意味不明な擁護をし、冷笑バカは「たしかに自民と統一協会の癒着は問題だが、リベラル派の過激な発言は一線を越え云々(でんでん)・・・」とトーンポリシングに終始している。その他の民衆は「なんとなく有名な人がいるから」「政権運営能力のある政党は自民しかない」などと噴飯ものの見解を披露している。
統一協会の教祖である文鮮明は日本への強烈な敵意を抱いており、日本は罪を犯した「エバ国」なのだから「アダム国」である韓国に奉仕せねばならない、ということを基本教義に据えた。日本を反共のための基地にすべく、日本人からどんどん税金を取って軍事力を増強させよう。日本人の生活水準は三分の一にしてしまえ。ついでに信者からは高額献金で搾り取れ。これが統一協会の理念だ。こうして日本人から収奪された金は韓国へ渡り、さらに北朝鮮へ渡り、ミサイルの開発資金にもなっている。1991年の文鮮明と金日成の会談以後、統一協会は「反共」を建前にし、むしろ北朝鮮との結束を強めたからだ。
こんなことは各種の報道でとっくに知れ渡っている。知ろうと思えば、誰もがたやすく知れる。そこまで行かなくとも、自民と統一協会の癒着ぶりはTVでも散々報道されている。なのに人々は、自民を支持し続ける。
彼らの怒りは、決して自民政権には向かわない。自己責任論、弱者叩き。生活保護受給者やクルド人をバッシングすれば、彼らの溜飲は下がる。不っ幸五輪、もとい“復興”五輪のようなムダ事業や、下卑た大臣が仕立てるウン十万のスーツに血税が使われても、彼らは怒らない。パンとサーカスどころか、パンが無くても日本人は満足なのだ。
「奴隷といふものには、ちょいと気のしれない心理がある。じぶんはたえず空腹でゐて 主人の豪華な献立のじまんをする。」「いまや森のなかを雷鳴が走り いなづまが沼地をあかるくするとき『鎖を切るんだ。自由になるんだ』と叫んでも、やつらは、浮かない顔でためらって『御主人のそばをはなれて あすからどうして生きてゆくべ。第一、申訳のねえこんだ』といふ。」
こうした韓日両国の状況を見るにつけ、俺は「ざまあ見やがれ!」と快哉を叫ばずにはいられない。秀吉の朝鮮侵略、近代史におけるアジア侵略、植民地化、大量虐殺、性暴力。それらのツケを貴様らは払わされているのだ。しかも、犯人や構造が明らかになっても、貴様らには反抗する気力すら無い。何たる怯懦、腰抜けぶり。ことによると、文鮮明は安重根に匹敵する快男児かもしれぬ。極めて巧妙に、韓民族による日本への復讐を成し遂げたのだから。これで俺の在日コリアンとしてのナショナリズムが、くすぐられずにおれようか。
・・・でも待て。この俺とて、日本社会で生きる一市民なのだ。こうしたズタボロ日本の崩壊ぶりは、俺の生活をも直撃する。俺は、海外へ打って出るだけの才覚は身に付けられなかった人間だ。嫌でもこの日本に根を張り、額に汗して生きてゆかねばならぬ。沈みゆく泥船に乗るタヌキが日本の民衆なら、俺はその毛皮に引っ付いているダニのようなものだ。水底へと沈んでいくタヌキを見て「思い知ったか!正義は勝つのだ!」とカッコよく啖呵を切れるウサギは、本国の韓国人や、その他アジア諸国の民衆だ。
日本人とて、タヌキばかりではない。歴史を直視し、差別への怒りを表明してくれた尊敬すべき人々はたくさんいた。歴史・政治問題抜きにしても、愛すべき友人たちにたくさん出会ってきた。そして何より、俺は日本のサブカルチャーや文学を愛している。円谷英二のような特技監督になるのが、小学生の頃の目標だった。俺の憧れとなり、模範となってくれた光の巨人たちや、進んでやられ役を引き受けてくれたソフビ人形の怪獣たちは、かけがえのない竹馬の友だ。太宰治は、自意識を持て余す思春期の俺と肩を組み、共に泣いてくれた。
そうした敬愛すべき友たちと団結し、この沈みゆく泥船を、丸木舟程度には変えていこう。これからの日本は、どれだけマジョリティが嫌がろうが移民を大量に受け入れねばならぬ。これまた、自民支持者が払わされるツケである。そうして増えた海外ルーツの人々とも連帯し、全ての人が生きやすい社会へ変えていくこともできるはずだ。
ウルトラマンジャックこと郷秀樹は、最終回で弟分の次郎少年にこう言った。「次郎、大きくなったらMATに入れ。 MATの隊員達は皆勇気ある立派な人達だ。君も嫌な物、許せない者と戦える勇気ある男になると良い」
バキューモンの腹の中のごとく窒息しそうなこの世の中でも、なんとか風穴を見つけることはできる。仲間と出会い、その風穴を広げてゆくこともできる。郷さん、見ていてくれ。俺も次郎くんと同じように、勇気ある立派な人達と連帯する。そして嫌な物、許せない者と戦える人間になってみせる。
かつての北海道は札幌市(北海道の西)-旭川市(北海道の中央)-釧路市(北海道の東)の3都市によって道内経済の均衡が保たれていた。
釧路市の没落(北洋漁業の規制による縮小・炭鉱閉山・デジタル化に伴った新聞購読者減による新聞紙需要の低下)で札幌市一極集中化が進行した。
そして、札幌市と釧路市の中間に位置して北海道東西を結んでいた旭川市も札幌市と釧路市間を往来する必要性がなくなり巻き添えで没落するという憂き目にあっている。
この状況どうにもならんよなぁと考えてたが、ふと「AIに聞いてみたら良いんじゃね?」と思いついた。
一度はじめてみるとコレがまぁ面白い。どう考えても金が掛かり過ぎる夢のような計画がChatGPTやGeminiによってポンポンと出てきて、まるでシムシティで遊んでるかのような感覚があり、夢想の中で生まれ故郷を地方創生できてしまうのだ。
以下は、私がAIと共に作り上げた夢想「北海道グランドデザイン」(の文字数制限のため要約化)である。
本構想は、北海道経済の「札幌一極集中」を打破し、かつての「札幌・旭川・釧路」の三極体制を現代的・革新的な形で再構築するための超巨額投資プロジェクトです。以下にその核心的な戦略を要約します。
現在の道東経済は、石炭・漁業といった基幹産業の喪失により「低位均衡の罠」に陥っています。本構想は、小規模な支援ではなく、数兆円規模の「ビッグ・プッシュ(大規模投資)」を注入することで、経済構造を非連続的に転換させることを目的としています。
札幌〜釧路間(約300km)を最速約1時間15分で結び、道央と道東を物理的に一体化します。
| 項目 | 内容 |
| --- | --- |
| 想定建設費 | 2.5兆円 〜 3.5兆円 |
| 時間短縮 | 約4時間 → 約1時間15分 |
| 戦略的役割 | 札幌の過密緩和、二拠点居住の促進、観光需要の「プル要因」との連動 |
フィッシャーマンズワーフMOOを解体し跡地および周辺地域の約62,000平方メートルを、世界最大級の屋内型サブカルチャーテーマパークへと再開発します。
冬季の寒冷・降雪を逆手に取った完全屋内施設により、通年観光を実現。
アニメグッズ等の「地産地消」および、小ロットOEMに対応する高付加価値製造拠点を形成。
数千人規模の若年労働者のコミュニティを創出し、ナイトタイムエコノミーを復活させる。
釧路空港〜駅〜厚岸を時速200kmで結ぶ、次世代モビリティの開発です。
遠心力による傾斜を制御するアクティブ・チルト制御(Active Tilt Control)を導入。旋回時の遠心力は時速200kmでは極めて大きな値となります。これを能動的に相殺する技術が不可欠です。
雪害に強く、野生動物の動線を阻害しない「エコロジカル・モビリティ」として確立。
天候リスクの高い島嶼国や先進国の再開発が遅れた地方(インドネシア等)へのインフラ輸出パッケージとして「釧路モデル」を外貨獲得源にします。
モノレール延伸により、厚岸を「食とリニア」を核とした富裕層向け温泉リゾートへ変貌。
東京〜釧路航路を再開し、大量生産されたグッズの輸送と、若年層の安価な移動手段(動くアニメホテル)を確保。
| フェーズ | 期間 | 主な内容 | |
| --- | --- | --- | |
| Phase 1 | 0〜5年 | テーマパーク建設、新幹線着工、工場・寮の整備 | 予算 計5,000億円 |
| Phase 2 | 5〜10年 | テーマパーク開業、モノレール実証実験、末広町再生 | 予算 計3兆円 |
| Phase 3 | 10〜20年 | 新幹線釧路開業、モノレール厚岸延伸、海外輸出開始 | 予算 全体合計6〜8兆円(10年スパンのインフレ状況による増減) |
本構想は単なる地方創生ではなく、「コンテンツ」と「先端インフラ技術」を新たな外貨獲得手段へと昇華させる試みです。技術的ハードルや労働力確保などの課題はありますが、これを乗り越えることで、北海道経済の自立と日本全体の災害リスク分散に大きく寄与する戦略的価値を有しています。
まぁつまりAIの答えは札幌市へ一極集中するなら釧路市へ巨大なコンテンツ観光を創出し、そのコンテンツを需要する釧路市以西の人々を函館市から札幌市へ延伸中の北海道新幹線を更に延伸させ釧路市へ接続し、北海道の冬は厳しいからジェットコースターとか運休しちゃうし施設は全天候の完全屋内型にして、更に釧路空港から釧路駅を経由し厚岸町へリニア駆動する懸架式モノレールを建設し、厚岸町を温泉リゾートとして再開発し、定期便フェリーも復活させて首都圏の金のない若者でも気軽に遊びに来られるようにすると札幌市一極集中じゃなくて中間の旭川市も復活して北海道経済は活性化するよ!予算は6〜8兆円ね!って言ってる。
ちなみにアニメ云々、懸架式モノレール云々、厚岸町云々とか大体8割くらいはAIが考えた。私は「テーマパーク作ってもルスツリゾート遊園地みたいに冬運休すんじゃね?」とツッコミ入れた程度。
誰とでも仲良くなれる人、興味の矛先が向かう者に近づける人。
そういった無垢で純粋な人を羨ましさと、恨めしさが同時に立ち込める。私の場合、適切に身を委ねることができない。自己開示をしすぎたり口を固く縛ったりする。そもそも、はじめの一歩ができない。だからといってそれができる人との劣等感をむくむくと立ち込めて心で睨むなどする私はとんだ卑怯者である。
全てに理由を考える。それが行き過ぎて、理由を積み上げるつもりがいつの間にか言い訳になっていることもある。
私には寂しいという感情がある。いつも独りでいる。感情がないと言われる。怖いと言われる。見つめ合う人々を見てずるいと思う。このまま他者との距離を測り続けていたら、どこかで社会から逸脱してしまうのではないかと、不安になることがある。人に相談したいと思うがその後、悩みをまとめてから…自分の話ばかりして嫌がられるだろうか…等極端な思い込みで、AIに語ることになる。誰かの経験則に従いたいが、否定されるのは怖い。本当に私という人間は幼い。
その寂しさを埋めるものはある。
Twitter、これは他人に自分の存在を残したいが為に利用する。強い承認欲求が、そこに確かにある。アドラーは「人に認められたい」という欲求は、他者の人生を生きることにつながると考えていて、私もそう思う。だから辞めたいのだが、唯一他者と匿名のまま本音で関われるツールであるが故多くの時間を溶かしてしまう。
あとは音楽、映画、お笑い、本…サブカルチャーと示されるもの。80〜00年代辺りのものを好み、周りより深いものを知っているんだぞという優越感は多少なりともある。だからと言ってその先に何もないのだけれど。私以外の形の寂しさを知ることができる。寂しさを寂しさで埋める。
社会の模範的な生き方から外れると、就活のような分かりやすい評価のラインでは、簡単にこぼれ落ちる。その仕組みに対し私は、どこかで悲しさを覚える。
もっとも、身体に異常がなくても心の状態が不安定であれば、評価されにくいのは至極当然なのかもしれない。
本稿で提示するプロファイルは、10万件以上のブクマを有するidを対象に公開コメントをAIが解析し、その深層心理や思想傾向をモデル化した「テキスト・ペルソナ」です。これは実在する個人のプライバシーを暴くものではなく、言語活動に基づく批評的なシミュレーション(思考実験)です。特定の個人の社会的評価を操作する意図はなく、あくまでAIによるテキスト分析の一環としてお楽しみください。
100文字にはとても収まらないが、俺ははてなブログを辞めているので(陰湿なコメントが飛んでくる最悪のサービスだからだ)この場を借りる。
Xでこの話をして俺のアカウントが荒らされて凍結したくないからだ。
最初に言っておくが他の誰かを俺と勘違いして「きっとコイツだ!皆で凍結させよう!」と暴れないで欲しい。
令和にオタクをやってたわけでもないのにこの単語を知っている奴はまずいないだろう。
なぜならオタクでない人間にはそもそもの「ネットミームかるた」という概念が理解不能なのだから。
この単語を理解し脳に残せる時点でオタクとして生きてきた奴に違いない。
そして「クロチャンのタイトルがちゃんとダガーになってるかで他人にマウント取って何が残るんや?」の破壊力が凄い。
これは本当に†のように鋭い。
こんなところに拘るところに意味を見出す適応係数とそれを自嘲することを面白いと思っている態度がまさにオタクのソレだ。
つうか令和の時代にこんなオタクしか知らないようなゲームの名前をポケモンレベルの知名度があるかのように取り出してくる時点でもう駄目だ。
田中ロミオの社会不適合文学に脳を焼かれ、それを愛する集団の中で群青ゴッコをしながら過ごした薄汚い過去が滲み出ている文章だ。
この言葉を叩きつけられて「やめてくれカカシその術は俺に効く」と答えたブクマカがほっっっっっっとんど居ないことに絶望すらある。
オタクっていうのはたとえ火の鳥から入ろうがシスプリから入ろうがFF11から入ろうが横山三国志から入ろうが、最後は田中ロミオや麻枝准のノベルでギャン泣きして「俺を人間にしてくれた。俺は今人間になったぞ!!!!」みたいに言い出すものなんだ。
いいか、オタクという言葉の真の定義は「受け身の態度で享受できるが故に自分を決して傷つけることのない2次元コンテンツの世界に耽溺することでしか自分の惨めな人生から逃避することさえ出来なかった生まれついての負け組共がなけなしのプライドを守るためにサブカルチャーに含蓄があることを心の拠り所にしようとしたはずなのに同じレベルの負け組同士で知識マウントや消費マウントを始めてしまった果てに生み出されるオタク知識と消費時間以外人生に誇れるものが全くなくなってしまった本当に惨めで憐れで救いようがないがその人生の傷の深さに対する共感によって深い繋がりを得たことを成功だったと認知を歪めることで辛うじて精神を維持している形のないカルト」なんだよ。
それから降りたと言っているが、どうせ無理だ。
今更コイツがオタクコンテンツ以外の場所に居場所を作ることなん出来ない。
アルコホーリクス・アノニマスに通う中毒患者共が「実は一昨日飲んじゃいました。でも今日は我慢してるんです。えらくね?」「いや、お前普通に酒臭いよ」「テヘペロ😜」とか言い合ってるような感じで同じ地獄の中をグルグル回る以外もう出来ることが残されてないんだからな。
つうか、コイツが「本当に辞められるんだ」と思ってる時点で、お前らに「オタクを見抜く目」が養われてないのは明白だね。
マジで浅いよ。
そしてその浅さで「俺はオタクの真の意味を理解してるから凄い!」とマウントを取りに行くのはマジで適応係数が終わってるから。
1. サイバー(Cyber)
「サイバー」という言葉は、サイバーパンクやデジタル技術、人工知能(AI)など、テクノロジーや未来的な要素に関連しています。サイバーパンクは、1980年代から人気を集めたサブカルチャーで、テクノロジーが進化した未来のディストピア社会を描くことが多いジャンルです。サイバー美少女というキャラクターは、テクノロジーと美少女の要素を組み合わせたキャラクターで、しばしば未来的な武装やAI、ロボティクス、バーチャルリアルな世界に住むキャラクターを意味します。
2. 美少女(Bishoujo)
「美少女」とは、魅力的で可愛らしい少女キャラクターを指し、特にアニメやマンガ、ゲームなどの日本のポップカルチャーにおいて使われる言葉です。美少女キャラクターは、しばしば強い個性や特別な能力を持ち、物語の中で重要な役割を果たします。
3. テロメア(Telomere)
「テロメア」は先に説明したように、染色体の末端にある構造で、細胞の寿命に関わる重要な役割を果たしています。テロメアの長さは細胞の寿命と関連しており、短縮すると細胞分裂ができなくなるため、老化や病気に関連しています。この概念をキャラクターやストーリーに組み込むことで、永遠の命、不老不死、あるいは生命の儚さといったテーマを探求することができるでしょう。
この名前が持つ意味を組み合わせると、「サイバー美少女テロメア」は以下のような意味合いを持っていると考えられます:
• サイバー美少女:未来的なテクノロジーやサイバースペース、またはAI技術を駆使して戦う美少女キャラクター。例えば、サイボーグやAIによって強化された美少女戦士のような存在かもしれません。サイバー空間やバーチャルな世界で戦うキャラクターが描かれる可能性もあります。
• テロメア:テロメアは「寿命」や「永遠」と関連しているため、このキャラクターが不老不死や時間を超越する存在である可能性が高いです。サイバー美少女がテロメア技術(またはテロメアに関連した遺伝子工学)を使って不老不死や永遠の命を持っているか、あるいはその寿命が科学的に操られているテーマを持つキャラクターである可能性があります。
可能な設定の例
• サイバー美少女テロメアは、高度な遺伝子工学やAI技術により不老不死の存在となった美少女キャラクターで、時間と生命に関する秘密を握っているかもしれません。彼女は未来の世界で、テクノロジーの暴走や倫理的問題に立ち向かう役割を果たすことになります。
• また、サイバーパンク的なディストピア世界で、テロメア技術が重要な役割を果たし、テロメアの長さが命を決定づけるため、テロメアをコントロールすることが権力を握ることに繋がるというようなストーリーも考えられます。
このようなキャラクター設定では、生命や時間に対する深い哲学的な問いや、テクノロジーがもたらす倫理的問題をテーマにすることができるかもしれません。
努力ができるできないは、育った環境によって変わるというのは本当なのだろうか。
仲のいいネ友界隈でこの議題が上がった際に、自分の発言で複数人の逆鱗に触れてしまったことがある。
そして、この身内内炎上ともいえることで、自分は平々凡々な人生を送ってきたが、そうではない、もしかすると箱入り息子だったのかもしれない、と思ってきた。
そうすれば、自分が今まで頑張ってきた勉強、音楽、父親の仕事の都合で同行したつらい現地生活……こういったものは全部下駄だったのか。
あるフォロワーが、「今の時代、努力でどうにでもなると思うなよ、」とつぶやいていた。
俺はそこそこ熱血根性のある性格をしているのと、感情論より論理派なので、違うのではないか、と異議を唱えた。
「努力すればどうにでもなる」「今はまだ20代だけど、30、40になっても努力しないつもりなのか」「自分は自分の努力によりいろんなことを叶えてきたし、いい年した20代後半の男だけど、まだ叶えたい夢も目標もある。今が一番若いから挑戦しないのはもったいない」「未成年時代の勉学などの努力を環境がよかったから、で一掃されるのは腹が立つ」
こんなことをいろいろ言った気がする。
俺は中学から進学塾に通い、某都内公立高校上位に進学し、早慶上位学部に進学。父親の転勤、自身の留学で二か国に年単位で住んでおり、英語もTOEICでは満点、現在は普通の会社員として都内の会社に勤めている。テストの点数や学歴は指標としてわかりやすいから載せた。
気持ちとしては能動的に何かをしなきゃ!となったことがあまりなかった。
むしろ、普通の人よりも試練ばかり与えられて、それをコツコツこなしてきた人生だったから、大変だった、頑張った、そんな気持ちが強かった。
父親の転勤による海外滞在は別に自分の功績ではないし、塾も通いなさい、と言われていたから頑張っただけ。英語も現地で身につけないと生きていけないから、頑張っただけ。
大学も同様、周りが東大を目指して頑張っていたから頑張っただけ。
当然ガキの頃なんて勉強もしたくないし、知らない外国人に囲まれたくないし、英語も勉強したくなかった。
附属高校に通って大学進学で楽をしたい、その思いで勉強していたような人間だから、前向きな原動力ではなかった。
習い事としてやらされていた、バイオリンもピアノも別に弾きたくなかった。乗馬だけは好きだった。馬が好きだから。部活の剣道と茶道、弓道も好きだった。
馬と和道・武道以外あまり前向きな思いで動いていたわけではなかった。
そのため努力をせずに、環境がよかったとぐちぐち言われると、なんでこれくらいできないのだろう、嫌々やっていた俺ですらできたことができないってなぜだ、そう思っていた。
逆鱗に触れたフォロワーは父親がいなく、東北の田舎のほうに住んでいた。
東京にずっと憧れていたが、親からは学校なんて行く意味がないと言われ、高校も留年し、当時付き合っていた方に毎日朝起こされて、なんとか卒業したらしい。
今は他人の家に居候し、風俗店の黒服をやっている。趣味はTikTokで可愛い女の子を眺めることと、通話依存症で常にXでスペースを毎日開いている。
音ゲーと太鼓の達人、鉄道、化粧、カメラが好きで、気に入らない女フォロワーのことを平気で女性器の名前で侮辱する。
なんとなくそのフォロワーのおかれている状況は知っていたが、田舎の人は学校に行かなくていい、親が勉強に理解のある人があまりいない、とかなりの人から意見をもらった。
確かに、俺も都内の公立中学校に通っていたが、休み時間に勉強していたりするとマイルドヤンキーたちに絡まれて、いじられたりしていたからそういう層が一定数学歴社会の日本にいることも知っている。
でも、世の中学歴だけではないと思う。
俺はこの議論の時に、「どんなことでも努力している人はすごい」とも意見を述べた。
例えば、彼氏とすごく仲が良くて結婚まで行きそうとか、サブカルチャーに詳しくて自分の知らないことについてたくさん語れる人。
推しアイドルが大好きでその子についてなんでも知っている人、ポケモンカードで大会にたくさん出ていること。
仕事に情熱をもっていて海外赴任までたどり着く人。ディズニーにとても詳しくて電話をすればすぐにわからないことを教えてくれる人。
全部これまた俺の仲いい友達の特徴だ。
これらは全部一種の努力なのではないか?まだまだ書ききれないものはたくさんあるが、どれも自分にはないものばかりだ。
そしてどれも自分が身に着けようものならそれなりの時間をペイしないと得られないものばかりだ。
だから俺はこういった友達を尊敬しているし、一緒にいて知見を得られる。楽しい時間を過ごせる。
努力する人が好きだし、努力できる人はかっこいいとも思うし、そうなりたいとも思う。
そしてこの友達のバックグラウンドはバラバラだ。地方済み、都内一等地住み、離婚済みの親、両親健在、一人っ子、兄弟がいる、奨学金を借りた、大学中退、一流企業に勤めている…
千差万別な環境で育った人の中でもできる努力はあるし、努力によって磨かれた才能があると思うのはあまりにも性善説すぎる考えだろうか。
先ほど挙げたフォロワー自身も、ダイエットで数十キロ落としている。これも努力の結晶ではないのか。
環境が仮に悪くても、自分とは違った努力の仕方をしている人はいるし、それはすごいことだと思うのはいけないことなのだろうか。
あとそもそも、成人したら親が~とか、環境が~とかは一切通用しないと思っている。むしろ成人してからが、親からのしがらみが溶けて本番だと思っている。
そのため俺はいまやりたいことや叶えたいことがいっぱいある。音楽を習い始め、歌の練習もしたり、ジムに通ったりしている。
努力すればなんでもできると思ってしまうのは、性格なのか、幼少期からの凝り固まった考えなのか。
AI小説やAI漫画を賞賛するやつって本当に先見の明がないんだなと思う。
サブカルのAI作品に需要があると、格安で大量に売るやつが出てきて市場が崩壊するのは間違いないのに。
いやいや、そんな低クオリティであろうものを買うわけないじゃん。と思うかもしれないが絶対に売れる。
現代のサブカルに対して、現代の消費者は質を求めてない。作者のメッセージも作品のテーマも読み取ろうとしない。「分からないから面白くない」で片付けて、分かりやすいものを手にとる。
そこには作者の葛藤も性癖も詰め込まれてない。売れるためには何が必要か。それだけが詰まってる。人が感動ポルノや癒し系アニマル動画をついつい見てしまうのと同じ。お決まりのパターンで脳内麻薬を分泌させることが趣味なのであって、決してサブカルチャーが趣味ではない。オナニーといっても過言ではない。
しかし、そんな社会が来たとしても困る人は1人もいない。経済は回るから。
飽きたのなら別の趣味を見つければいい。
いつまでも反AI活動に興じる暇があるなら、「自分にはこれしかないから」と決めつけずに、別の世界を見に行ってはどうか。
アバター課金だけでやっていけるのは、見栄を気にするイキリマイルドヤンキーキッズがメインターゲットである対戦シューターやMOBA系くらいだけだろう
あれらは競技性という縛りがあるからキャラや性能的な優位性を売ることができず、競技性を収益に転換するためにロールモデルとしてプロプレイヤーを系列企業ぐるみで祭り上げ、ショービズ込みで成り立っている
アイドルの稼ぎはライブの物販にかかっているのと同じだが、そういうゲームジャンルは治安が悪くなる
落ち着いたオタクの多いサブカルチャー系のRPGではリアルタイムの物語体験を売っていくためにやはり基本無料だとキャラクターや育成リソースを売っていかないといけない
最近はRPG系でもアバター課金だけでやると息巻くタイトルもいくつか見かけるが、このジャンルにおいて持続性のあるアバター課金主軸モデルが成立した前例はないんで疑問が残る
俺はこの手合いがRPG系運営型ゲームに必須の充実したアップデートを提供できると思わないので、ある種の売り逃げ焼畑商法の一種だと思っている
一応MMORPGの時代にはアバターに性能をつけランダムボックスから排出されるレアアバターを公式RMTのように取引させることで盛り上げるゲームはあったが、キャラガチャモデルより倫理的な問題が多く社会問題にもなった
そもそも、他人が娯楽に金払ってる様子を見て「搾取」だなんて言うことは失礼極まりない、自分としては信じられない感性だ。
これは詐欺でも違法でも洗脳でもなんでもない、昔のソシャゲとは次元の違う、映画やアート作品がもつ審美性に匹敵する総合芸術をまず享受しているんだよ。払っている人たちは。
何百億、累計すると何千億とかけてサブカルチャー理解のある優秀なクリエイターたちによって作られてきた作品の複合体を。
プレイヤーが受けている感動や感銘を無視し、まるでゴミを好んで食べる人かのように見下しているんだろう。だがこれは現代のアートの最先鋒の一角だ。
そうであることは、これらゲーム公式が公開しているアニメーション動画や音楽動画、それにつくコメント、ファンの人々の反応を見ていけば分かるはず。
ものの価値というのは対価を支払う人が決める。そして強制される部分もなく、ギャンブルのように強く射幸性を刺激する作りにもなっていない。(この部分は実際にやらないと信じられないかもしれないが、どうせ80連近くなるまでまず出ない設計だからカラクリを理解してるプレイヤーは淡々と回すようになる。ガチャの体をとっているが限りなく定額売りに等しいものだ。ゲーム内で入手できる無料石で充当できる分だけ進歩的。)
だから重層的で濃密なアートを受け取った人が、自分の経済力の範囲内で、あるいは感銘のあまりちょっと範囲内を超えて、パトロンのように大口でお金を払うことを、まるで自制の効かない異常者の行動かのように決めつけるのは悪辣極まりない。
それに、これらゲームに費やせる金額には限度がある。6週間で新キャラが2体でるとして、1体のために最大まで金をかける(完凸+餅完凸)としても、30万は超えない程度の額×2だ。
大人の趣味として考えると糾弾するようなものでもないだろう。青天井に課金ができた古いカードバトル型ソシャゲだと、一人で累計3億だか課金した人がいたようだが、そういうことは起こらない。
ともかく、そうやって偏見を己の中で増幅させ斜に構えることでアイデンティティを守る癖が抜けないタイプの人間が、5年10年単位で展開されじっくり向き合うタイプの物語作品に素直に感動できることはなさそうだし、いくら説いても理解できないだろう。
だとしても、その傲慢で無礼な口を噤む美徳くらいは身につけられるものだと信じたい。
ガチャゲーというビジネスモデルに対する偏見や悪意をもつ人は、ガチャゲー像自体がアップデートできていない。
アップデートすると馬鹿にできなくなるからだろうが、ガチャ=悪質が成り立っていたのは10年代まで。
今では、上等なコンテンツに対し個々の支払い能力に応じたバリアブルな支払いと、その額に対してそこまで傾斜しないゲーム体験を与える、繊細なバランス感覚で成り立つモデルになっており、サブカルチャー支援に関してメリットが際立つ課金方式になりつつある。
プレイヤーの目が肥え、開発費が高騰した結果、事業者にとっては地獄だが、消費者にとってはより良い体験を与える課金方式に変化していることを認識してほしい。