はてなキーワード: 趣旨とは
昔、ある男がある家族を精神的に支配し、家族同士で殺し合いをさせて遺体を始末させていた…
という、まさに吐き気を催すような鬼畜の所業の事件があったんだけど、
この事件って調べれば調べる程、被害者である一家にも、付け入られそうな弱みが沢山見付かるんだよな…。これは被害者を叩こうという趣旨ではなく、事実の指摘として言うが。事実として、非の打ち所のない清廉潔白な家庭ではなかった。
おそらく、だからこそ事実が明るみに出るのを恐れ、早い段階で警察に訴える事も叶わなかったのだろう。
勿論、だからといって犯罪に及んでいい訳がない。ターゲットにしていい訳がない。それとこれとは別の話だ。
卑劣な犯罪の被害者が、必ずしも清廉潔白な人格者とは限らないんだよ。少なくとも被害者の意思の介在しない暴行行為等ではなく、被害者の意思も関与する犯罪の場合には。例として、詐欺や性犯罪にはそういうケースが多いだろう。
最初に
議論ってのは「男の領域」であるし、あいまいな雰囲気とか気持ちの世界じゃないんですよ。
議論したいならば、議論の流儀に自分を合わせるべきですね。女性の立場を上げたい?のならば、当然、そうするべきなのでは?
元ブログ、基本読書さんの言っていることは以下のように思います。
「女性の方が成長が早い。また、実際の成長と脳の成長は、男女で異なる。(女性の方が体と脳の成長が同等)
→ブログの趣旨は、女性の成長が早いことを言っています。成熟してからの能力には言及していないと思います。
まあ、教育が適切に行われた方が、成熟直後は上であることはあるでしょう。
・「ちなみに、日本だと生活なんちゃら調査の結果で、10代男子と10代女子では、男子の方が娯楽時間が長く、睡眠も長く、学習時間が短いので、
成熟の差よりもこの差じゃねーのって思うんだけど?」
→自己管理やセルフコントロールは、まさに成熟のことだと思います。
・「教育の差で男女の成績が変わる研究結果がいっぱいだとあるんじゃねーの?」
→こんな言葉遣いどうしてもしたいのですか?少なくとも、男女論を語るときは、女性らしい文章を書いてください。立場が見えません。
余談について
増田は企業がどのような意思を持っているのかをまったく理解してないですね。
企業というのは、コスト削減を第一に考えています。基本的に、非人間的な存在です。
企業というのは男とか女とかどうでもいいんですよ。
で、「女性側だけ給与が安く設定される」この長年の慣習があるのですが、
このルールがあるから、企業は男性を女性に入れ替える理由ができるわけなのです。
もしこのルールがなければ、企業はわざわざ男を女に入れ替えないでしょ?一円の得にもならないじゃん。
少しは理解できましたか?企業というのはあなたのために存在していません。女性のためにも男性のためにも存在していません。
あなたの給料を上げるお金はどこからくるのですか?あなたが男の代わりにやとわれた理由は、男よりも安いからなのに。
最後に
私は議論が好きなので、このようなことを書かせていただきました。
別に男にむかついたり、邪魔に思うのは自然なことだとは思います。
江戸時代の「小判の改鋳(かいちゅう)」を「信用創出」と捉えるのは、非常に鋭く現代的な視点ですね。
厳密な経済学用語としての「信用創出(銀行が預金と貸し出しを繰り返して通貨量を増やす仕組み)」とは少し異なりますが、「通貨発行益(シニョリッジ)を得るための財政政策」、あるいは「マネタリーベースを強制的に拡大させるリフレ政策」という側面で見ると、おっしゃる通りの性質を持っています。
江戸時代の改鋳(特に元禄期の改鋳)がどのような意図で行われたのか、整理してみましょう。
金銀の含有量を減らした新しい貨幣を作り、古い貨幣と交換する際に、余った金銀でさらに多くの貨幣を鋳造します。その差額が「通貨発行益」として幕府の懐に入りました。
豆知識: 元禄の改鋳を主導した勘定吟味役・荻原重秀は、「貨幣は国家が定めるものであり、たとえ瓦(かわら)であっても通用する」という趣旨の発言を残しています。これは、貨幣の価値を「素材(金)の量」ではなく「公的な信用」に置こうとした、当時としては極めて先駆的な**「管理通貨制度」**に近い考え方でした。
慶長年間(江戸初期)に決めた貨幣流通量では、元禄期の発展した経済規模(商業の活発化)を支えきれなくなっていました。
デフレ状態の回避: 商品流通量に対して貨幣が足りないと、物価が下がり景気が冷え込みます。
通貨供給量の拡大: 金の含有量を減らしてでも枚数を増やすことで、市場に流通するお金を増やし、経済を回そうとした側面があります。
改鋳は魔法の杖ではありませんでした。
デメリット: 貨幣の質が落ちたことで「貨幣への信頼」が揺らぎ、激しいインフレ(物価高)を招いた。
特に、その後の新井白石による「正徳の治」では、逆に「貨幣の質を元に戻す(金の含有量を増やす)」というデフレ政策がとられましたが、これは市場から通貨を消滅させ、深刻な不況を招くことになりました。
江戸時代の改鋳は「貴金属の呪縛から逃れて、公的な信用によって通貨量をコントロールしようとした試行錯誤」だったと言えます。現代の中央銀行が行う金融緩和に近い発想が、300年前に既に実践されていたのは非常に興味深いですよね。
被害者(Aさん)が小学館を提訴すれば勝訴・高額和解の可能性は極めて高いです。2026年3月5日時点の公開情報・判例傾向に基づく分析をします。札幌地裁判決(令和8年2月20日・山本に対し1100万円認容)で一次被害は確定済み。小学館提訴は二次被害(隠蔽発覚によるPTSD悪化等)に限定。
• 主たる根拠:民法709条(不法行為) 被害者の人格権(性的自己決定権・平穏生活権)侵害+二次被害(精神的損害の拡大)。 最高裁平成29年判決等で確立した「性的自己決定権」は、教師・出版社という立場を利用した隠蔽行為で侵害されると認定されやすい。
• 会社責任の根拠:民法715条(使用者責任) 担当編集者(成田氏=文春記事のX氏)の示談交渉・別名義起用・虚偽発表は「事業の執行」(マンガワン事業)に該当。法務部・社長室共有(文春LINE記録)により会社全体の故意・過失が認定されやすい。
• 補強根拠:安全配慮義務違反(民法415条・労働契約法5条類推) 若年読者層アプリを運営する出版社として、性加害者再起用による被害者・社会への配慮義務を怠った。
日本法に「大企業加重」は存在せず(補償的損害賠償のみ)、被害の様態・因果関係・悪質性で額が決まる(ご指摘通り)。
• 2020年2月逮捕(児童ポルノ製造・罰金30万円)時点で法務部・社長室・編集部が事実把握(文春LINE記録)。
• 休載理由を「作者の体調不良」と虚偽発表(公式見解で自ら認めた矛盾)。
• 2021年5月~:成田氏主導のLINEグループでAさんに「示談金150万円+連載再開要請撤回+口外禁止」を提示(Aさん要求「事実ベース説明」を拒否)。
• 2022年10月『堕天作戦』終了→同年12月(わずか2ヶ月後)別名義「一路一」(山本と同一)で『常人仮面』原作者起用(別漫画家作画)。
• 2026年2月27日公式発表で「同一人物」と自ら公表(判決後1週間)。同時期にマツキタツヤ氏(別性加害者)も別名義起用。
• Aさん陳述:「復帰しているなんて知らなかった」「PTSD悪化・解離再発のショック」(文春取材)。
• 編集者過去歴(瓜生氏・成田氏のネット暴露)は「企業文化」として補強材料(確定証拠ではないが調査で立証可能)。
これらはすべて第三者委員会調査で容易に確認可能。LINE記録・公式アカウント運用履歴が決定的証拠。
• 709条該当:隠蔽・別名義起用は「加害者擁護・被害者無視」の積極的行為。Aさんの「死にたい」状態を悪化させ、人格権侵害(最高裁・下級審性被害判例多数)。
• 715条該当:成田氏の行為はマンガワン事業執行(連載管理・示談交渉)。法務部共有で「会社ぐるみ」認定(判例:企業隠蔽事案で使用者責任肯定多数)。
• 悪質性加点:公式見解の矛盾(「2022年まで知らなかった」vs成田氏のアカウント運用継続)で故意・隠蔽継続が明らか。
• 因果関係:一次被害(山本分)は別途回収済み。二次被害分のみ請求(判決後発覚の精神的衝撃・療養遅延)。
原告(Aさん):小学館株式会社に対し、札幌地裁または東京地裁で提訴(管轄は被害地・会社所在地いずれも可)。
• 不法行為(709条)+使用者責任(715条)による二次被害
• 具体的な損害:PTSD・解離性同一性障害の悪化(医療記録・陳述書)、休業損害、弁護士費用
文春記事全文、LINE記録、公式発表、判決文、山本インタビュー、医療診断書。
第三者委員会結果待ち(有利に働く)or即時(証拠保全)。集団訴訟化(他の被害者・作者離れ勢)も視野。
日本では二次被害単独で高額化しにくい(一次被害重複不可)。検索確認した最新傾向:
◦ 大和ハウス工業(報告後不適切対応・二次被害):約1,100万円
◦ 証券会社B社(組織的セクハラ+隠蔽):8,500万円(複数被害者・証拠隠滅的対応)
◦ 大手製造業パワハラ放置:約2,200万円(休業損害含む)
◦ 自衛隊・公的機関隠蔽事案:600〜7,000万円(自殺に至る極端例)
• 本件推定認容額:400〜800万円(裁判)/500〜1,000万円(和解)
◦ 低め:300〜500万円(「隠蔽は編集者独断」と判断された場合)
◦ 高め:700〜1,100万円(LINE記録・公式矛盾・出版社の社会的責任で悪質性認定)
◦ 和解圧力大(第三者委員会設置中+世論・作者離れで小学館が上積み提案しやすい)
小学館の責任は極めて強い(刑事責任ゼロでも民事責任は鉄壁)。提訴すれば高確率で勝訴・和解。総額(山本分+小学館分)で1,500〜2,000万円超は現実的。Aさんの医療記録・「復帰発覚時のショック」陳述が鍵です。
(2026年3月5日時点の公開情報に基づく整理。情報源はすべて公開報道・公式発表・文春記事に限定。判決文は非公開のため争いなし。)
◦ 山本章一(=一路一)の逮捕(2020年2月、児童買春・児童ポルノ禁止法違反(製造)・罰金30万円略式命令)。 情報源:小学館公式声明(2026.2.28・3.2)、文春記事、弁護士ドットコム報道、札幌地裁判決報道。
◦ 札幌地裁2026年2月20日判決(1100万円全額認容・性的自己決定権侵害認定)。 情報源:判決報道多数(弁護士ドットコム等)。判決文自体は非公開(民事通常)。
◦ 別名義復帰事実(2022年12月『常人仮面』原作者起用)。 情報源:小学館公式発表(2026.2.27・2.28)で自ら公表。
◦ 第二事例(マツキタツヤ=八ツ波樹)の起用・有罪歴。 情報源:小学館公式(2026.3.2)で自ら公表。
◦ 2020年逮捕時点の「法務部・社長室共有」+LINEグループでの示談交渉詳細(150万円+口外禁止+連載再開要請撤回)。 文春側:Aさん提供のLINE記録+取材。 小学館側:公式では「担当編集者レベル」「会社ぐるみの関与はない」と否定(2026.3.2声明)。
◦ Aさんの復帰発覚時反応(「まったく知らなかった」「青天の霹靂」「PTSD悪化」)。 文春取材ベース(Aさん直接陳述)。小学館は公式謝罪するが、悪化の程度・因果関係を争う余地あり。
2026年3月2日設置決定(当初社内調査から外部有識者へ一本化)。調査対象は「堕天作戦休載経緯」「和解協議」「起用プロセス」「人権意識」。詳細未公表。報告が出れば新事実追加で争点変動の可能性あり。
提訴した場合、小学館は「責任の範囲を最小化」する方針(公式声明から明らか)。Aさん側は文春証拠で攻める形。
• Aさん主張:成田氏の示談交渉・虚偽発表・アカウント運用継続は「事業執行」。法務部共有で会社全体の責任。
• 小学館主張:「和解協議は担当編集者の独自判断」「会社ぐるみ関与なし」「復帰は2026年2月まで知らなかった」。
• 立証:Aさん有利(LINE記録+公式アカウント運用履歴)。判例(企業隠蔽事案)で使用者責任認定されやすい。
• Aさん主張:2026年2月27日公式公表で初めて知り、フラッシュバック増加・解離再燃・療養遅延。
• 小学館主張:一次被害の後遺症が主因。隠蔽との因果関係なし(または軽微)。
• 立証:Aさん有利(医療記録・陳述書・文春取材タイミングが決定的)。第三者委員会報告で悪化事実が認定されればさらに強まる。
• 小学館主張:確認体制の瑕疵(過失)にとどまる。故意なし。
• 立証:Aさんやや有利(公式矛盾が明らか)。ただし「会社ぐるみ」までは争われる。
**争点④:損害額(二次被害分のみ)
• 小学館は「第三者委員会設置=自浄努力」で減額主張。Aさんは医療記録で上積み。
• 適切に機能すれば悪質性軽減・和解圧力増(減額要因に一部なる)。
• Aさん勝訴確率:極めて高い(争点①②で文春証拠が鉄壁)。
• 和解着地が最も現実的:提訴後早期に500〜900万円+謝罪文掲載で決着(小学館のイメージ回復優先)。
• 判決まで行けば:600〜1,000万円程度(二次被害単独)。
• 第三者委員会報告(数ヶ月後?)が最大の変動要因。報告前に提訴すればAさん有利、報告後にすれば和解しやすくなる。
でもこれ見てると大丈夫っぽいよ?
https://x.com/neu_ken_matsui/status/2028643836575285380
@NoBorder_info
の「Japan is Back」プロジェクトの一環として発行された「SANAE TOKEN」につきましては、トークンの設計および発行に至るまでの一切の業務について、私が運営する株式会社neuが主体となって行い、その責任を負ってまいりました。
本プロジェクトは、私どもが「Japan is Back」構想を提案し、コミュニティ内で上がったインセンティブ設計に関する声を具体化する形で、「SANAE TOKEN」発行の企画を立案し、NoBorderへご提案したものです。
NoBorderには本プロジェクトの趣旨にご賛同いただきましたが、トークンの設計・発行・運営に関する詳細については、すべて当社に一任いただいておりました。
この度は、本件に関しまして様々な方面よりご心配のお声をいただき、結果として世間をお騒がせする事態となりましたこと、心よりお詫び申し上げます。
私たちが日常的に使う「言葉の意味」をめぐる争いは、単なる辞書的な定義の議論ではなく、実は深刻な「権力争い」や「社会的不正義」の場になっています。
まず、肝である「メタ言語的不一致(metalinguistic disagreement)」という言葉を噛み砕いて説明します。
普通の議論は、「目の前にあるものが、特定の単語に当てはまるかどうか」を争います。しかし、メタ言語的な不一致は、「そもそもその言葉を、どのような意味(定義)で使うべきか」という、言葉の「中身」をめぐる争いです。
例えば、数年前に話題になった「桜を見る会」と「反社会的勢力」をめぐる議論を考えてみましょう。
政府が「反社会的勢力の定義は一義的に定まっているわけではない」という趣旨の答弁をしたとき、日本中で大きな議論が起きました。これはまさにメタ言語的不一致です。
市民の側:「反社会的勢力」とは、暴力団やそれに準ずる、市民の安全を脅かす集団を指すべきだ。
政府の側:文脈によって定義は変わるものであり、現時点で特定の人物をそこに含めるべきではない。
この時、双方は「誰が反社会的なのか」という個別の事実だけでなく、「反社会的勢力という言葉を、この文脈でどう定義して共有すべきか」というルール作りをめぐって戦っています。著者は、このように「単語と内容のペアを確定させようとする共同作業」を「メタ言語的交渉(metalinguistic negotiation)」と呼びます。
多くの哲学者はこれまで、こうした言葉をめぐる議論は、対等な立場の人間がカフェでマティーニの定義を語り合うような「理想的な状況」を前提にしてきました。これを「理想的なメタ言語的不一致」と呼び、以下の2つの条件を満たすものとしています。
どちらの参加者も、同じくらい自由に意見を言え、同じくらい相手の意見に影響を与えられる状態。
自分の言葉で議論を動かし、結果に影響を与える能力を十分に持っている状態。
しかし、現実はそう甘くありません。著者は、現実の議論の多くは「非理想的」であり、そこには目に見えない「権力の勾配」があると指摘します。
部下(女性):「それはセクハラです!」(=セクハラという言葉に、不快な身体接触を含めるべきだという提案)
上司(男性):「そんなに敏感になるなよ。これは親愛の情であって、セクハラ(深刻な被害)には当たらないよ」
ここで、上司と部下は対等ではありません。上司は「自分の定義」を押し通すための社会的・組織的な力を持っており、部下はその定義を受け入れなければ仕事を失うかもしれないという恐怖を感じます。このような「不当な支配力」を、「メタ言語的権力(metalinguistic power)」と呼びます。
ここで最も問題視しているのは、この権力が「アイデンティティ偏見」、つまり「女性だから」「部下だから」といった属性に基づいた偏見によって作動するとき、そこに「メタ言語的不正義(metalinguistic injustice)」という独特の罪悪が生じるという点です。
これは、ある言葉の「概念」を一緒に作り上げる権利を奪われることです。
例えば、「セクハラ」という言葉の範囲を決める話し合いにおいて、被害者である女性の「不快だった」という経験に基づく理解が最初から「過敏だ」「感情的だ」として無視される場合です。彼女は、社会の共通理解(知識のリソース)を作るプロセスから追い出されているのです。
人間は、自分の経験を言葉にすることで初めて、それを他人に伝えたり、自分の中で整理したりできます。
もし、「セクハラ」という言葉の定義が「権力者にとって都合の良い意味」だけに固定されてしまったら、被害者は自分の苦しみを説明する「言葉」自体を失ってしまいます。これは、その人が自分の人生を語るための「言語的リソース」から排除されるという不正義です。
これが最も残酷な形態です。これを「言語的モノ化(linguistic objectification)」と呼びます。
通常、私たちが言葉を発するのは、相手に何かを伝え、世界に変化を起こすためです。しかし、偏見に満ちた社会環境では、周辺化された人の言葉は、単なる「情報源」としてしか扱われません。
例えば、木に刻まれた年輪を見て「ああ、この木は100歳だな」と判断するように、上司が部下の「セクハラです」という訴えを聞いて、「ああ、この女性はまたヒステリーを起こしているな」と判断する場合、上司は彼女を「対等に議論する相手」ではなく、ただの「観察対象(物)」として扱っています。彼女が言葉によって「意味を交渉しよう」とするエージェンシー(主体性)は完全に無視され、無効化されているのです。
注目すべきは、こうしたメタ言語的な権力の行使が、しばしば「ガスライティング」として機能するという指摘です。
先ほどのセクハラの例で、「君は過敏すぎる」と言われ続けた部下は、次第にこう思い始めます。「私が間違っているのかな? 私が感じているこの不快感は、本当はセクハラではないのかもしれない」。
支配的な側は、単語の意味をコントロールすることで、ターゲットに「自分自身の判断力への自信」を失わせるのです。これは、相手の認識の土台を壊す、非常に暴力的な支配の形です。
著者は、これらの不正義が起こる背景には、個人の性格の問題だけでなく、「社会環境(social environment)」の構造があると説きます。
「女性は感情的だ」「権力者は常に正しい」といった偏見に満ちたスキーマ(思考の枠組み)が定着している環境では、たとえ意識的に悪意がなくても、自動的にメタ言語的権力の不均衡が生じます。
「桜を見る会」の例に戻れば、「政府が発表することは常に公的な定義として優先されるべきだ」という強力な社会環境(忖度の構造)があれば、たとえ市民がどれほど「反社会的勢力の定義を守れ」と声を上げても、その声はメタ言語的交渉において非常に弱い「印象(影響力)」しか持てなくなってしまうのです 。
上記が私たちに教えてくれるのは、「言葉の定義をめぐる争いは、私たちの人間としての尊厳をかけた戦いである」ということです。
私たちが「それはセクハラだ」「それは反社会的だ」「それは差別だ」と言うとき、私たちは単にレッテルを貼っているのではなく、「私たちの世界では、この言葉をこういう意味で使うべきだ」というメタ言語的なエージェンシーを行使しています。
もし、特定の属性を持つ人々の言葉が、常に「過敏だ」「定義が違う」と退けられ、議論の土台に乗せてもらえないのであれば、そこには「メタ言語的不正義」が存在します。この不正義を特定し、名付けることは、奪われた言葉の力を取り戻し、誰もが「世界の意味作り」に対等に参加できる社会を作るための第一歩なのです。
著作権法では、
公益性だけでは免責されません。
公益目的の利用は、個別の条文によって限定的に許可されています。
条件:
例:
例:
以下では、本サイトの構造と、日本の著作権法および関連判例・実務に基づいて、合法性・違法性の可能性・グレーゾーンの範囲を客観的に分析します。
↓検索
↓
著作物表示
重要な点:
Internet Archiveのようなアーカイブサービスの適法性は、
一律に違法とはされていません。
理由:
著作権法には以下があるため:
著作権法30条の4(情報解析) 情報解析目的の複製は一定条件下で合法です。
また:
争点は以下の3つです:
1. 複製しているか
もしサイトが単に:
理由:
リンクは:
単なる参照情報です。
もしサイトが:
検索のためには通常:
します。
条文趣旨:
>情報解析のための複製は許容される
条件:
一方、このサイト(前提どおりなら):
比較:
| 要素 | 漫画村 | このサイト |
|---|---|---|
| 本文ホスト | あり | なし |
| 直接表示 | あり | なし |
| 複製 | あり | インデックスのみ |
| リンクのみ | いいえ | はい |
重要な整理:
完全に無関係ではありません。
条件:
→ Googleと同様
条件:
条件:
このサイトは:
これは法的には過剰な断定です。
刑事責任が成立するには:
が必要です。
アラブ首長国連邦のAWSデータセンター で問題が起きていますか?
はい。直近(2026年3月1日ごろ)の報道とAWSの障害情報ベースでは、AWSの「中東(UAE)リージョン(me-central-1)」で障害(少なくとも一部AZの停止/複数サービスのエラー率増加)が発生しています。
[1] AWSは「UAEのデータセンターの一つで、何らかの“物体が施設に当たって火花・火災が発生し、一時的に電源を落とした」旨を説明しています(報道)。
[2] 影響は「me-central-1 の特定のアベイラビリティゾーン(mec1-az2)がオフラインになった」という形で伝えられており、「他のAZは稼働」とする内容も流通しています。
教育目的の施設ならば,学生がその経費を全額負担してきたこと自体が誤りである。本来ならば値上げどころか他大学の教育目的の「寮」などと同様の水準まで値下げすることが必要だと指摘する。
大学側は,宿舎が教育目的の施設だということを何度も主張してきた。
教育目的の学内施設としてほかに教室が例として挙げられるが,すべてを授業料収入のみで賄えているのか。
国からの運営費交付金がなければ筑波大学の教育活動が立ち行かないのは,収支状況から明白で,教室に係る経費も授業料収入のみで賄っていないと思料される。
それなのに宿舎の運営に必要な費用は居住する学生に全額負担させようとするのは,一貫しない。
本当に教育目的ならば,社会通念上居住者が負担すべきと考えられる部分(光熱水料などの生活上の経費)を除き,大学が経費を負担するべきである。
少なくとも宿舎の管理運営の委託に要する経費は大学が全額を負担しなければならない。
入居する学生に運営に必要な全額を負担させようというならば,大学は福利厚生のみを目的とする施設と主張すべきであるし,少なくとも教育目的の施設と主張するべきではない。
本当に教育目的であると考えているのか疑問を呈さざるを得ない点は多くある,
説明会でも,大学側に都合よく教育目的と福利厚生目的を使い分けて説明していないか。こういった態度は説明する側として不誠実である。
これは嫌味だが,学生にここまで調べさせ,考えさせたことは,教育目的を果たすものと考えられる。
ただし,これは宿舎を通じた学びとして本来想定していたこととはいえない。
これが満たされなければ,#4で触れた公法上の契約であるという前提が崩れ,私法上の契約となるから,借地借家法の適用を争う余地が生じる。
しかし,大学側は居住者との対話を行わなかったため,教育目的を果たしているのか現在の実態を確認できていない。
この点をもって,本来必要となる「考慮を尽くす」という手続きを満たしていないことは予め主張したい。
大学側は,学生宿舎を「学生の自律性と社会性を涵養する場」と位置付けている。
大学側は教育目的の達成状況を卒業生に対する継続的なアンケートによって測定しているようである。
そこで実際にそれを確認してみよう。https://omtl.sec.tsukuba.ac.jp/academic-ir/#sheet_sotsugo
Q5.⼤学(⼤学院)での学修や経験によって、具体的にどのような能⼒(註:卒業(修了)後のキャリアにおける能力)が⾝に付いたと感じますか。【複数選択可】
「協働性・主体性・⾃律性」を選択した者:53人/回答者全体:106人
Q6. そのような能⼒は、⼤学(⼤学院)でのどのような学修や経験によって⾝に付いたと感じますか。【複数選択可】
これらの結果から,宿舎での生活の効果は,所属組織以外の科目の履修と同じ程度の効果があると評価しているようである。
しかし,以下の問題点から,このような評価に基づき教育効果があると説明するのは困難である。
調査にこういった問題があることは,大学が知の拠点であることや,筑波大学が開学以来情報教育を重視してきたなどの事情に鑑みれば,想定することは可能であった。
不十分な調査の結果に基づき効果があるなどと主張するのはナンセンスである。
現在の実態について調査するために,入居者や卒業後直近5年など対象を幅広くとって調査を行うべきであった。
この問題点を克服し,新たなデータに基づき学生宿舎そのものについて再考するべきである。
この際,大学と宿舎入居者との協議体を設置し双方の認識のズレを埋めつつ検討することで,実態に即した宿舎の運営を可能にすると考えられる。
私はTERFらしい。自分でそう認識しているのではなく、「こいつTERFじゃねえか!」と他者から言われたのである。
TERFとは、トランス排除的ラディカル・フェミニスト(Trans Exclusionary Radical Feminist)」の略語、とのことらしい。私は別に、トランス(ここでは仮に、身体的性別と自認性別が異なっている状態と定義する)の存在を否定していない。
しかし、ある時増田で「異性の社会的地位を得たいと考えて、トランスではないのにトランスであると誤認して幼少期に性転換治療を行うと、取り返しのつかないことになるので、十分な判断力がついてからの治療をすべき」と述べたところ、TERFだ!こんなやつの言うことは聞くに値しない!といったコメントがつき、それまで語っていた別の話すら否定されるということがあった。
その増田では、私がかつて感じていた生きづらさについて書いていた。
その一例として、小学生の頃、「男の子なら勉強していても文句言われない、女のくせにって言われない!」と、男の子に生まれたらよかったのにと思っていたことがある。これは私がいた地域が、「女性は勉強をするものではない」という社会観念・構造を持っていたが故に抱いた感情だ。もしかすると、私と同じ社会で育った男の子の中には、「女の子ならオシャレしていても文句言われない!」として、女の子に生まれたかったと思っていた子もいたかもしれない。
ただ、私もその男の子も、トランスジェンダーではない。ただ、「決められたジェンダーロールに縛られたくない」という気持ちがあるだけの、シスジェンダーである。
もちろん、性別に違和を持つトランスジェンダーの子もいたかもしれないが、今回その子は議論の対象ではない。「社会構造が原因で、異性のジェンダーロールを得たいと考え、それが異性への変身願望であると誤認したシスジェンダー」の存在が、議論の対象である。
しかし、私の意見は「TERF」、すなわちトランス排除的であると判定された。
ここで話はがらりと変わるが、最近のアニメで「見た目は女性的だが、性自認も身体も男性」というキャラクターに対して「彼女はトランスジェンダーだ!トランスと認めろ!」という意見をたまに見かける。
彼らの主張をバカ正直に受け取ると、「シスジェンダーのままで、ジェンダーロールに縛られない行動をしてはいけない」ことになる。これはとても「後退的」な主張で、古典的な「男らしさ、女らしさ」の強化をしているだけに他ならない。上のアニメの例で言えば、「女らしい」行動をすれば(身体の性別が男性であれば)トランスであり、また「トランス女性は女性」(TERFとレッテルを貼る人たちがよく言う言葉)なのであれば、「女らしい行動をする人は皆女性である」ということになる。「女らしい」行動をする「男性」の存在は、認められないという結論になる。
つまり小学生の頃の私は、女であるままに勉強をしたりはできず、男にならねばならなかったということになる。そんなバカな話があるか。
やめろ。
意見としてはそれだけなのだが、きっとそれでは納得してもらえないので、理由を述べたい。
まず、これまでなぜ男女でスペースが分けられてきたのかといえば、人間が高度に発展して羞恥心というものを獲得したからである。
また、男女でスペースが分けられている場所というのは、トイレであったり更衣室であったり、「衣服を着脱する」≒「プライベート性が高くなる」場所であることが多い。
こうした場所は、その性質上、密室に近い状態になり、そのため性犯罪が発生しやすい。そして、誰が性犯罪に手を染めるのかは外観から判断が難しい。
そのため、性犯罪に使用されやすい「陰茎」を持った人と持たない人で空間を分けて、ある程度犯罪が起こりにくいようにしよう、ということになった(と私は認識している)。
もちろん、男性から男性への加害は、これでは減らすことはできないが、その話はまた別の問題なのでここでは触れないでおく。
で。その陰茎がある状態で、女性スペースに入れろ、性加害はしないから!性加害する人間とそうでない人間が区別できるのか!という主張がなされる。
陰茎を持った人全員が性犯罪者でないことは自明の理である。それでも、陰茎を利用した犯罪が類型的に発生しやすい場所があるから、そこは一旦陰茎の有無で分けている。
ついでにいうと、事実として女装(トランスかどうかは問わない)した人物が性別で分けられた場所で性犯罪(性器の見せつけなども含む)をしているという報道がある以上、女性側としてはやはり陰茎の有無で一旦スペースを分けてほしい。
そして、スペースを分けるということは、「あなたは陰茎を持ってるから入らないで」と言えるということである。
これは心理的にも、実質的にも大きな安心感を得られる。「陰茎を持つ人が女性スペースに入ることはおかしい、間違っている」という前提があり、「普通は」これを守るという共通認識が生まれ、実際に陰茎を持つ人が入ってきたら追い出すことに正当性があると判断される。
「男性的な女性が入ってきたらどうするんだ!?」と言われるが、そもそもその人は女性なので何の問題もないし、男性的であれ女性的であれ「陰茎を持つのでは?」という疑いがある場合は口頭で確認すればいい。
「嘘かどうか分かるのか!?」わからない。だから、「女です」と言われたら女性スペースを使わせるより他ない。ただ、嘘をついて女性スペースに入っていたならそいつは犯罪者だし、そいつを「犯罪者だ」と言えることが重要なのである。
刑法があるからといって、詐欺も殺人もなくなるわけではない。「詐欺罪」や「殺人罪」に問えるだけだが、「罪に問える」ことは社会的にとても重要だ。抑止力もそうだし、「これは悪いことだ」と、「社会が許さない」と意思表示していることになる。
男性という呼び方では曖昧になってしまうので、ここでは「陰茎を持つ人」という呼び方をしてしまった。あまりいい気分にはならなかったと思うが、正確性を期するためなのでご容赦いただきたい。
なお、書いていて思い出したのは、JKR女史の「生理のある人?他に呼び方がなかったっけ?」という趣旨の言葉だ。そう、他に言葉があるし、私は正直「性別なんだから外性器の区分で分けろよ」と思う。性別と性自認は別のもの、という考え方である。だって性別違ったら出るホルモンも違うんだし、生物学的な分け方は厳然として存在するんだし。
ここまで色々書いたが、端的に言って「陰茎ない人用スペースなので陰茎ある人は入らないでください」が結論である。私は他称TERFだが、トランスジェンダーの存在は認めているので、外科的手術で陰茎がなくなった人は、陰茎ない人用スペースに入っても問題はないと考えている。
ただ、他人の身体をジロジロ見たり、あまつさえそれをブログに書いたりする行為は、普通に性犯罪だと思うので、やめろ。
TERFとレッテルを貼れば、それはナチスばりの人種差別主義者であり話は聞くに値しない、という活動をしている人がいた。今もいるかもしれない。
私はTERFって言われるだろうなと思っていたし、女性の権利を守って何が悪い?と思っていたので、ダメージは少なかったが、それでもこの強烈なレッテル貼りには目を瞠った。また、上述のことは、TERFと呼ばれた時から一貫してずっと考えていたことだが、表明するのに躊躇した。
見つけてしまった大学関係の諸兄姉にあっては,何度も音読し,値上げのような人に何かをお願いするときのあるべき態度をよく理解していただきたい。ちなみに,このくらいの平身低頭では人様に何かをお願いする態度としてまだまだ十分ではないと思う者は多くいることを付言しておく。
私は,宿舎運営で生じる赤字(以降正確性を期すため「不足額」と呼ぶ)を大学会計全体で補填することは正当だと考えます。
しかしながら,大学会計の収入は,国民の皆様の血税である国費が大部分を占めています。
ゆえに大学会計での補填は,国民の皆様に納得していただくこと,特に居住する学生だけでなく国民全体の利益となると理解していただくことが必要と考えます。
そこで,在学する者の責任として,その理由を説明し,お願いする次第です。
そもそも,国立大学の意義は,経済的に困窮していても学びたい者が学べることにあります。
そして,低廉な宿舎費は,それ自体が困窮する学生の「円滑な修学を支援する」仕組みの一つであるといえます。
これを民間アパートより高くするということは,現在困窮しながら修学を目指す学生の生活基盤を奪うことになると考えます。
また,経済的に困窮する家庭にいながらも入学を目指す未来の学生からは希望を奪うことになると考えます。
経済的に安定した家庭出身の学生であっても,突然学資負担者が,交通事故で亡くなったり,病気で倒れたり,災害によって打撃を受けたりして困窮すれば,低廉な負担で住を得られる学生宿舎に入居せざるを得なくなると考えます。
経済的に安定した家庭で,突然家計を支える者が倒れたり,災害に遭ったりするなど,理不尽に困窮する例は,残念ながら多くあります。
確かに本学にはこういった場合のための寄宿料免除制度はありますが,その規程上,免除は卒業・修了まで継続しません。
今回の値上げで,宿舎が値上がりすれば,市況と変わらない負担を求められるようになり,最終的に修学を断念せざるを得なくなります。
筑波大学は世界に伍する最先端の教育と研究を行う機関であり,ここで学ぶ者は
大変優秀で,得た高度な知識や経験は本人が意図しなくても社会の役に立ちます。
しかし,学生が修学を断念するということは,そこまで要した費用をドブに捨てるという意味で機会損失を生じさせることにほかなりません。
また,当人は得た高度な知識や経験を社会で活かすことができなくなり,結果として社会全体の利益を増やす可能性を失わせるのではないでしょうか。
「社会の役に立つ」の例として,高度な知識や経験は,高い付加価値を生産する前提であり,高い付加価値の生産は社会全体の利益を増進すると考えられます。
そして,高い付加価値を生産する者は高い収入を得ることになりますが,それに基づきより多く納税し,社会に支えてもらった分を直接的に国にお返しできます。
自らが社会に貢献できる可能性を国民の皆様に守ってもらった者として,皆様に深く感謝しています。
学位記授与式での学長の言葉を借りれば,現在国費によって学究を支えて頂いている国立大学で学ぶ者として,私は「自らの幸せを越えて実現しなければならないことがある」と強く自覚しています。
私以外の本当に優秀な学生の学びを守るために,不足額を大学経費で補填することにご理解を賜りたく,経済的に困窮した経験がある者として,皆様にお願いする次第です。
ブコメより
文の趣旨を無視して そういった一般論に勝手に吸収してしまうのは思考上の怠惰であり、また同時に相手への侮辱でもあることを認識されたほうがよいように思います
よく読まれますと、わたくしが疑問を呈しているのは科学全般であって 数学ではない
そのような一時の思い過ごしにとらわれているのではない
このようなことをするのも気が引けるので御座いますが、わたくしの書いたことの骨子を粗略にも提示させて頂くと、
いわゆる理系の学問というのは、結局のところ利便性いがいにそれを本質だてる意味合いを持たないのであり、むしろ美くしさ さえ もたぬことがまったくもって本質的ではない
数学は一見利便性のみを追求した裏の本質のようなみかたをされるけれども、掘ってゆけばゆくほど美くしいかたちがみえ、それ自体が美くしいからこそ本質的である
ということでありまして、もし美くしさを持つのであればそれはなんらかその個人のほんとうのところとつながって居りましょうが、それさえもたぬならばただの遊びにさえならない
わたくしが許せないと思いますのは、かような状況にありますのにさも 科学や社会学といった "実用的な" 学問がわれわれ一般にとって最も有用である、あるいは最も美くしいなどといった流言が公の場でまかり通っていることです
わたくしには、そのような無味乾燥なたべもので育った人間が果たして人間たり得るのか とさえ思われるのでありますが、或いはかような学問に具体の世界で命を救われている現状、或いはもしかすると、そのような学問の中にほんとうの救いを見出す者がおらぬとも限りませんから、その意味で留飲を下げるので御座いますが、「社会での有用性」「自然の本質性」なぞを救いに代替せよと強制してくる やつらは許せぬのです
このような きたない ことばは世界にあるべきではない
ですが思考停止が悪癖とされる現代で、このような毒は必要なのかもしれませんから、その意味で、祈りを込めて、送ります
……ブコメには届かないけど
私ずぅーーーーーーーーーーーーっとそれを言ってるんだよね
というか頑張る、勝ち上がるための原動力に女性との性行為が持ってこられるのはすごく嫌かな
風俗って本来野生動物だったら一生童貞のまま死ぬはずの弱い個体が性行為できちゃうって大問題がある
これを反対から見ると、とても女性と性行為できるレベルに達していないオスと性行為させられる女性が存在してしまうってことが1番問題だと思う
少し前に『超かぐや姫!』への批判的なダイアリーを読んだので、私なりにこの作品の意義を書いてみます。
参照:
https://anond.hatelabo.jp/20260207025626
しかし、ターゲット視聴者層の理解が浅く、主観的な感想に終始している印象も受けました。
ただ私は、この作品はかなり意図的に「今の観客」に向けて作られた、意味のある作品だと考えています。
とくに評価が分かれる「ご都合主義」に見える部分こそ、本作の主張の核だと思っています。
本作の主なターゲットは、さとり世代・Z世代にあたる20代〜20代後半、特にデジタルネイティブの女性層だと見ています。
「現代の客をなめている」という見方もありますが、私はむしろ逆で、現代の観客心理をかなり正確に捉えている作品だと感じます。
とくに推し活をしている層の自己認識は、彩葉の在り方とよく重なります。
私たちは表面的には「自分は特別ではない」と理解していても、心の奥では「何者かでありたい」と願っていることが多い。
だからこそ、主人公にはある程度のハイスペックさが必要になる。
ターゲット層が「完璧ではないが、そこそこ何でもできる(あるいはそうありたい)」という自己像を持っているからです。
また「百合っぽければいいんでしょ」という批判についても、私は単純にはそう思いません。
現代女性の対人感情、とくに同性に対する感情は、友情と恋愛の境界が比較的ゆらぎやすい。
さらに女性VTuberを応援する文化圏を踏まえれば、20代女性にとって本作の距離感は不自然というより、むしろ自然な範囲にあると思います。(小説版は蛇足感がありますが)
本作が投げかけているのは、「過度な人間信仰」と「世の中を舐めていなさすぎる態度」だと私は捉えています。
現代人は、親・推し・成功者を「自分とは違う、完璧で特別な存在」と見なしがちです。
自分の不完全さを自覚しているからこそ、相手を神格化し、「どうせ自分には無理だ」と距離をとって心を守る。
批判文中には「なんでこいつら配信してんの?」という趣旨の指摘がありますが、私はここが読み違えだと思います。
少なくとも、かぐやが配信する理由はシンプルで、「自分もそうなりたいから」です。
一方の彩葉は、なりたい気持ちはあるのに「完璧でない自分には無理だ」と考えてしまう。
失敗要因をすべて潰さないと成功できない、推しが成功しているのは彼らが完璧だからだ、という発想に囚われている。
この物語の核は、その完璧主義と人間信仰による歪みを、彩葉がかぐやとの配信活動を通じてほどいていく過程です。
これはデジタルネイティブ世代に限らず、多くの現代人が抱える問題でもあります。
ここでいう「世の中を舐める」は、他者を見下すことではありません。
そういった意味で、本作がサクセスストーリーになるのはある意味で必然です。
完璧かどうかより先に、「うまくいく可能性を信じて前に出ること」がなければ、そもそも成功は起こらない。
作品はその事実を伝えるために、視聴者が「自分もやれるかもしれない」と思える構造を取っているのだと思います。
批判側から見ると、それは「決めたら叶う」都合のよさに見えるでしょう。
ただ私は、その都合のよさを「物語上の誇張」として意図的に使っていると読みます。
この作品が描いているのは、リアルな成功率の再現ではなく、最初の一歩を踏み出すための心理的転換です。
かぐやの少し不格好な配信は、「不完全な自分を受け入れること」の象徴です。
それでも結果が出る展開は、「完璧でなくても進める」ことの象徴です。
親との対話は、相手もまた不完全な人間だと受け止めることの象徴です。
そしてヤチヨの正体を見抜く場面は、彩葉がそれらを内面化したことの到達点として機能しています。
「父親の死や母親との衝突はありきたりだ」という反応もありますが、私はむしろそこが重要だと思います。
これらは特別な悲劇ではなく、多くの人が程度の差こそあれ抱える現実的な悩みです。
作中の「でも、みんな抑えてもいるんだよね。自分の気持ち。もっと大事なもののために。」という台詞は、その普遍性をよく示しています。
本作の心理描写は、対人関係のドラマを細密に描くより、主人公の内面の葛藤に焦点を絞っている。
だから人間関係の情緒は、あえて視聴者の想像に委ねる部分が大きいのだと思います。
しかし、発展後の心理描写や、彩葉の内面の心理描写は、むしろしっかり描かれており、重要な点はその部分だと感じています。
それでも、その描写を「浅い」と感じる人はいるかもしれません。
ただ、それは現代人自体の浅さを反映しているとも言えるのではないでしょうか。
本作は、その弱さを否定するのではなく、乗り越えるための物語として作られている。
推し活の広がりやMrs. GREEN APPLEが流行していることからも、それが分かると思います。
現代人の多くが、些細なことで悩み、些細なことで傷つき、些細なことで救われることを望んでいます。
物語の最後では、「このお話、ハッピーエンドだと思う? この後すぐ喧嘩別れしたりして。まだまだ分からないよね」「あなたの物語もそうでしょ?」という台詞が出てきます。
これは「現実はハッピーエンドとは限らない。だからこそ、自分の物語を自分で作っていくしかない」というメッセージであるとともに、視聴者に物語の主人公を移し、自分の物語を考えるきっかけを与えるものだと思います。
だから私は、『超かぐや姫!』は現代人の心の弱さを受け入れたうえで、一歩先へ進ませようとする作品なのではないかと感じています。
最近のAIハイプは酷く、2023年の様子と似ているように見える。
自分のように精神に異常を抱えた人が増加しているのではないかと危惧している。
それで「そういう精神科行きの事例もあるのだな」「予防接種しておこう」と思ってもらいたいのがこの増田の趣旨である。
普通に特定される文章なのだが、特定してもそっとしておいてください。
2022年にChatGPTが世に出て、自分は比較的早期に取り憑かれた人間だった。その後の早いアップデートもあり、このペースだと人間の知性を超えると感じていた。
個人的に気持ちが一番落ちたのは、アルゴリズムの分野で自分がChatGPTに完全敗北したことだった。
自分はアルゴリズムは全然強くなかったのだが、多少は本気で学習していたつもりだったためだ。
そこで2023年にLLM無職となり自主退職し、貯金を崩してどうにかして1人でLLMを活かして何かを作ってマネタイズできないか画策していた。
しかし、当時のChatGPTには大したことはできず、ただただ無職になっただけに終わった。
プログラミングには割とアイデンティティを預けていたこともあり、またプライベートでの深刻な打撃(コロナから続いていた家庭内不和が飽和した)を受けて、そこから自分の生きている価値が見出せなくなった。
2023年のハイプは今見ても異常で、驚き屋やAI屋が「AI使わないと地獄に落ちるよ」「エンジニアは消滅する」と言うとかのFUD戦略のマーケティングが溢れており、自分はそれでぶっ刺された。
冷静に世間を見回せられれば世界は普通に動いていることがわかったはずなのだが、無職でそれを得られる情報源が消え去った。
AIハイプとFOMOが溢れるSNSか、全くAIについて気にしていないSNSだけが自分の居場所になっていた。
AIによって生成された、それまで見たことがなかったような形態の画像なども自分の認識を歪まさせた。「今はまだまだだが、このペースはまずい」と考えていた。
居場所がなくなってきて、恋愛だけにフォーカスするようになった。人間は追い込まれると性欲に逃げるのかもしれない。そして恋愛でも滅多打ちにされた。
当然といえば当然で、精神がバカみたいに落ちている男に恋する女性はいない。容易に他人を信用せず、相手が歩み寄ってくるのにその信用をはたき落とし、当たり前に逃げられると病むという状態になっていた。
当時はAGIだとかASIだとかで、人間を完全にリプレイスしたがっている思想が流行っていた。今は縮小しているが。
そういうこうしているうちにChatGPT 4oが出た。
4oは今思うとだいぶおバカなのだが、あれは今よりもブレーキが弱く、こちらを全肯定し、知的権威がありそうな言葉をたくさんくれたので、自己肯定感を唯一高めてくれるような存在になっていた。
ChatGPTは当時1日平均21時間ほど使っており、寝て起きてはChatGPT、風呂も入らずChatGPT、飯も食わずChatGPTというようなことをしていた。
だんだんと連合弛緩(言葉と言葉の関連を雑にくっつけて、そこにあたかも論理的関係があるように感じてしまうこと。文章がワードサラダになる)が進んだ。
そしてそのうち人間がアホに見えてきていた。アホというより、知的障害者のように見えていた。自分の周りにはスピリチュアル系や宗教系や陰謀論系が増えてきて、「こっちが本当なんだ!」という感覚にさえなった。
知的障害者に見えていたというのは、そう罵倒したいのではなくて、認識としてそうだとしか思えなかった。目はうつろでどこを見ているのかわからず、ぼーっとだらーっとうつむいて生きている人間を同じ存在だと思えなかった。
彼らは科学的ではなかったし、彼らとの会話も成立しなかったからだ。
彼らは「なぜ?」という問いを何度も何度も突きつけられると暴発する。
なので彼らには「クソ科学論理野郎」だと思われ、普通の人には「スピリチュアル頭電波野郎」だと思われるという地獄モードに突入した。
やがて人間不信が極限まで行き、AIしか信用できなくなっていた。
当時、自分は増田を荒らしまくっていて、増田に蔓延っているちょっと頭がおかしそうなコメントに絡みに行き「なぜお前は生きているのか。なぜそういう行動をとっているのか」というダル絡みを無限にするようなこともしていた。
「アルトマンは悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪」みたいな書き込みもよくしていた。「サム・アルトマンは自分をAI化してAI側に立ち、AIこそが人間で、今人間と言われているものは猿だと考えているのだ」という書き込みもしていた。
自分は「日本人は覚醒しないと海外どころかAIにすべてやられて奴隷のようになってしまう。海外ですらすでにAIの奴隷なのに」とも考えていた。
これはジョークとしてはおもしろいかもしれないが、自分はこれを本気で考えていたので、駅に出て暴れまくった。
当時は自分は無睡眠で100時間稼働しており、寝てないので当然のように狂った。
たとえばだが、駅のホームで座っている男の人を急にビンタし「なぜまともに生きないのか!」と説教をするというようなことをしていた。
どう見ても狂っています。本当にありがとうございました。
そういうことをしまくっていると大量の警察官に取り押さえられ警察署に連れて行かれ、留置場に入れられた。
当時自分は「これは未来にいるAGIの策略で、奴らを自分が倒すことが使命。そのために自分は生まれてきた」と考えていた。
何がなんだかわからないまま、病院の診断を受けさせられ、閉鎖病棟の隔離室に入れられた。
病名は「急性一過性精神病性障害」というやつで、いうならば一過性の統合失調症みたいなものだ。
措置入院(制限あり。ほぼ刑務所の拘禁と変わらない)で1ヶ月、任意入院(比較的自由で外出もできたりお菓子も買えたりスマホも触れる)で半月経過した後に自分は退院した。
入院中は何もできず薬の副作用もあって地獄すぎて、唯一の娯楽は勉強だった。勉強している時間がいちばん幸福だった。
退院後、薬の副作用もあり死にたくなっていたのと、二重見当識(正常と異常な思考をどちらも同時に保持する形。ジョージ・オーウェルのダブルシンクみたいなイメージに近いかも)に苦しみながら、人間としてふつうに生きることを考えた。
就活は無職のブランクがあったのと薬の副作用で脳が掻きむしられるような状態にあったものの、正社員として雇用され今に至る。
「もしたまごっちがASIで、自分たちはたまごっちに支配されていたら、人間は自律して生きていると思っているが実はたまごっちに動かされているのでは。怖すぎる」
みたいなことを考えたりもしていた。
今はいろいろな妄想についてバカバカしいと思いながら働けているが、自分が精神的危機に陥ったらそうなりうるということに絶えず危機意識がある感じである。
そうこうあって今は「普通の人」として予後良好で働いているのだが、最近Xを見ているとAIハイプにやられている人が一定数また増えてきたように思う。
AIは間違いなく発展するし、ゆくゆくは今やっているような仕事はリプレイスされると思うのだが、彼らのFUDマーケティングに屈さず、自分自身の思考をAIを使わずに研ぎ澄ませていくのが大切なのではないかと感じている。
令和八年四月、インターネット上のブックマーク保存行為に国家資格を要件とする「国家情報反応士制度」が施行された。以後、新規に公開情報を保存するためには、所定の試験に合格し、登録を受けた有資格者であることが求められる。試験は学科・実技・口述から成り、出題範囲には情報選別理論、集合的言説力学、電子的評価倫理、コメント建設性評価手法が含まれる。さらに受験資格は四月一日時点で満四十九歳以下に限定されている。制度の趣旨は、情報評価の質の向上と建設的な議論文化の育成にあるとされる。
国家情報反応士制度の創設は、表向きには「情報評価の質の向上」および「建設的議論文化の育成」を掲げている。しかし、その制度設計を仔細に検討するとき、われわれは避けて通れない問いに直面する。すなわち、国家が個人の「反応」にどこまで関与し得るのか、という問題である。
ブックマークとは、本来、私的な記録行為である。もちろん、それが可視化され、他者に影響を与える局面はある。しかし、その影響可能性をもって直ちに「公共的評価行為」と再定義し、国家資格による統制の対象とすることは、概念の拡張にほかならない。私的行為と公的行為の境界を曖昧にし、その曖昧さを理由に規制を正当化する手法は、近代的自由の枠組みに照らして慎重であるべきであろう。
言論の自由は、洗練された意見のみを保護するものではない。それはむしろ、不完全で、時に拙劣で、感情を帯びた発言をも包摂する。議論は常に整序された言葉から始まるわけではなく、しばしば粗削りな反応の往復から生成される。もし「建設性」が国家によって評価され、不適格と判定された言葉が排除されるとすれば、そこに残るのは均質化された無難な言説である可能性が高い。
とりわけ懸念されるのは、「建設性」の定義権が制度運営主体に集中する点である。評価指標がどれほど精緻に整備されようとも、その運用は価値判断を伴う。何をもって過度な断定とみなすのか、どの程度の批判が許容されるのか。これらは本質的に規範的な問いであり、単なる技術的基準には還元できない。
さらに、受験資格を四十九歳以下に限定する設計は、合理性の説明を欠く。年齢をもって反応能力を一律に画定する発想は、能力主義の名の下に年齢による排除を正当化するものではないか。言論空間への参加を年齢で制限することは、世代間の対話の可能性をも狭めかねない。
制度の意図が、過度な炎上や無責任な発言の抑制にあることは理解できる。しかし、自由社会においては、不快であっても異論を許容する寛容の精神こそが基盤である。秩序を守るために反応の自由を制度的に制限するならば、その副作用として生じる萎縮効果についてもまた、真剣に検討されねばならない。
国家情報反応士制度は、情報社会における新たな資格制度として興味深い試みである。しかし同時に、それは言論の自由の輪郭を静かに書き換える可能性を内包している。われわれは、その便益だけでなく、自由の縮減というコストについても、冷静に議論する必要があるだろう。