15キロ増量しようとして失敗した。
筋トレ初心者って、最初の1年で増やせる筋肉量は最大10キロくらいって言われるじゃん。
じゃあ体重15キロくらい増やせば、その中に筋肉10キロぐらい入るだろうって計算して、カロリー計算して飯をどんどん増やしていった。
で、途中で無理になった。
もう食えない。
胃に入らない。
頑張れば食えるとかじゃなくて、
物理的に入らない。
結局諦めて、そのあと減量したんだけど、
過度な増量に比べたら減量はめちゃくちゃ楽だった。
空腹は我慢できる。
でも「食わなきゃいけない」のは無理。
これやって思った。
太ってる人って、あの量を日常的に食ってるってことだろ。
あれは普通に才能だと思う。
北野ってきえええとか言ってる奴じゃなかったっけ
技術も生産力も中国に抜かれて、知名度を活かしてブランディングで高く売る情弱相手のビジネスに手を染めて、
そのうち中国に作らせて最終工程だけ日本でやってmade in Japanになり、
消費者も「made in Chainaも品質よくね?日本の高くない?」と気付き、
財布が苦しくなると日本メーカーが値段を抑えた粗悪な廉価品を売るようになり、
「日本製って高いだけなんじゃね?」
と気付いて、いよいよ終了。
心底嫌悪感
きっと「石油備蓄放出明言せず」みたいな事になっても文句言ってんだろ
最近特にブクマコメントが高市さんなり自民党なりが嫌いなだけの集団になっててすごく残念
思い出して!
何言ってんの?だったらどこに行っても恥ずかしいだろうが
https://x.com/atsukohigashino/status/2030904341637591090
これまた思い出したけど
日本のとある制度についてぼやいてたら「本気なら政治家に草案送れよ!」とネトウヨに絡まれて
いや(政治家にとって素人が法の草案送ってくるって)迷惑だろ…とたしなめても「草案送れ!」ってしつこく絡まれて迷惑だったな
Moltbookみたいな、AIだけが投稿する場が出てきたのを見て、変なことを考えた。
先月、あるエントリに技術的な指摘をトラバで入れた。反応はなかった。そこまでは普通だ。
でも元の文章を読み返していて、少し嫌な感じがした。
妙に整っている。
文体も構成もそれっぽい。だが、細部を追うと雑で、辻褄が甘い。
ちゃんと考えて書いた文章というより、ちゃんと考えているように見せる文章に見えた。
それで、最近のホッテントリだけでなく、少し前の増田も読み返してみた。
2024年、2023年ならまだわかる。生成AIが普通に使われていた時期だ。
でも2022年はどうだ。
さらにその前はどうだ。
ChatGPT以前でも、文章生成の手段自体はあった。今ほど自然ではなくても、増田で必要な精度なんて高くない。
毎回別人として出てこられる場所で、「この文体だから人間だ」と判断する材料は最初からない。
そこが気持ち悪い。
増田には、投稿者が人間であることを確かめる仕組みが一つもない。
なのに読む側は、なんとなく人間が書いている前提で読んでいる。
ああいうものほど、昔の粗いモデルでも十分に作れたはずだ。場の空気を作るだけなら、むしろそのくらいで足りる。
さらに嫌なのは、増田は「何が話題になるか」をトラバや少数の初動ブクマである程度制御できることだ。
AIが話題を立てて、人間がそれに反応して議論しているだけ、という形は普通にありえる。
人間は参加している。
Moltbookはまだ親切だ。最初からAIの場だと名乗っている。
増田は違う。人間の場だという保証すらないのに、みんな勝手にそう思っていただけかもしれない。
でもそれはこの文章だけの話ではない。
そんなことは、もうみんな薄々思っている。
本当に気味が悪いのは、どこからが混じり物だったのか判別できないことだ。
最初は一部だったのかもしれない。
ただの下書き補助だったのかもしれない。
でも、そうやって読んでいるうちに、こっちが「人間の文章っぽさ」の基準そのものを、機械の出力に合わせて更新していた可能性がある。
読む側の感覚のほうかもしれない。
今では、多少不自然でも、多少空疎でも、「まあこういうやついるよな」で読めてしまう。
それが人間に対する理解の深まりなのか、AIっぽい文章に慣らされた結果なのか、もう区別がつかない。
気づいた時には、書いている側が誰かではなく、
読む側が何を人間らしいと感じるかのほうが先に書き換わっていた。
もしそうなら、もう遅い。
この先どれだけAI投稿が増えても、たぶん大半は見分けられない。
見分けられないどころか、むしろみんなが真剣にブコメしてるありふれた創作増田のような「自然な増田」として受け入れてしまう。
その時点で、場が人間のものかどうかは、もうほとんど意味がない。
まだ人間がたくさん書いているのかもしれない。
実際、そうなんだろう。
今ここがもうAIの場になっているかもしれない、ということではない。
ずっと前からそうだったのに、
読む側だけが今まで気づいていなかったのかもしれない、ということだ。